9、神様に愛されるひと

 内から無限に湧き出でるイマジネーション。

 そんなもの、私には無い。


 構図を考えるときは、慎重にパースを定め、配色を計算する。

 どう見えるのか、どう見せたいのか、どう見せるべきなのか。

 考えて、考えて、考え抜いたその先で、ようやく筆を走らせる私では、描けないものがある。

 ルイの描く絵は、そういうものだ。


「綺麗に描けたね」「よく描けてる」「上手だね」


 欲しいのは、そんな言葉ではない。

 息を吞み、涙が出るほどの感動。心を震わせ、感情を揺さぶる何か。理屈ではない、言葉では表せないもの。

 その分からない『何か』が欲しい。


 一年前、ルイが帰って来て嬉しかった。ルイの絵を見て、ルイが自分を立たせる何かを見つけたことに安堵した。

 でも、同じくらい私の中にある黒い感情に気付かされた。

 初めてルイの絵を見たあの時芽生えた、忘れていた黒いもの。


 自分の中のその感情が、すごく嫌だった。

 ほっとしたのに、優しくしたいのに、大切にしたいのに。


 私の中に渦巻くのは、羨望、というにはあまりにどす黒い、重い感情だ。

 ルイが妬ましい。羨ましい。憎い。

 そして、そんな気持ちを盾にして、無意識のうちにルイを傷付けようとすらする。


 ルイも大概どうかしてるので、「ヨルちゃんがそうしたいなら」とか言いそうだし、実際そんな風に受け入れてしまうのだろう。


 ルイが私に執着する、その狂気じみた想いと同じくらいの、私は私の中の狂気を自覚している。

 その才能に見合っていないただの狂気で、私は無駄にルイを傷付けようとする。


 『卒業旅行』へと旅立つその日、空港へと向かうまさに直前のルイは、私に会いに来た。

 大きなリュックを背負って、大学の正門前で私を見つけ、衆人環視の中、私に唐突で、甘く優しい触れるだけのキスをした。


 それがきっと最初で最後。

 ルイが、ルイ自身に許した、ヨルちゃんに触れるということ。


 でも、そのただ一度だけで私には十分だった。


「大好きだよ」


 たった一言の、子どものおままごとみたいな告白を残し、ルイは旅立った。

 私に色々なことを知らしめる、十分過ぎるほど十分な告白で、お別れだった。


 そしてルイは、絵筆を取ったのだ。


 海の向こうで才能を開花させるその前なら、まだルイと私が恋愛する余地はあったのかもしれない。


 でも今はもう、不可能だ。


 ルイの絵を見る度に、私の中にはどす黒いものが渦巻く。

 仮にルイが筆を置いたとしても、それはそれで無理だろう。

 あれだけの才能を与えられながら、カンヴァスに背を向けるルイを、私はきっと許さない。


 二回の分岐点を経て、私とルイは決定的に道を違えた。少なくとも私の中では。

 一度目は、小三のあの時、初めてルイが、絵筆を取った時。

 そして二度目は、ルイが外国で絵筆を取った時。


 ルイを男として見れないなんて、そんなことはない。

 嫌いになんてなれない。

 弟である以上の、情もある。


 ただそれよりも鮮烈な、強い思いがあるだけだ。




 バーからの帰り道、お酒が飲めないルイが車を運転することもできたけど、あえて二人で歩くことにした。

 星が煌く夜空の下、ルイは私の歩調に合わせてゆったりと歩いている。


 ルイの目は、無言のまま空を見上げていて、シャドーストライプの黒い袖口から、色白の手が揺れている。

 骨ばってて、ごつごつした大きな手と、長い指。


 沙希さんと話して、ちょっと泣いて、美味しいものを食べて、ビールを飲んだせいだろうか。私はふと、その手に触れたくなった。

 後ろ暗い意図など何もない、ただそうしたいというそれだけの気持ちから。


 その欲求に忠実に、私はルイの手を絡め捕った。

 触れた手は温かく、少しだけかさついていた。


 その瞬間、ルイの全身が強張って全ての動きを止め、そしてものすごい勢いで手元を見た。

 払い除けそうになった手の動きを全力で制したと云わんばかりの挙動の末、ルイの脚が歩くのをやめる。


 見開いた目が、動揺と混乱をしています、と物語っていた。


「いいでしょ、たまには」


 信じられないものを見るような目で、子どものように繋いだ手をガン見して、ギギ……と音がしそうなぐらい、まるで壊れかけのロボットの様な動きで、ルイが視線を上げた。


 その口がぱくぱくと動く。「いいけど」と言いたかったんだと思う。掠れた返答は、ほとんど声になっていなかった。


「大丈夫、折ったりしないよ」


「……ヨルちゃんがそうしたいなら、別にいいよ」


 それは、手を繋いでても構わない、という意味だけじゃない。


 何も言わず、私はしっかりと繋いだ手を握りしめた。

 ルイの目から零れた涙には気付かなかったことにして、私はその手を引いて歩き出す。


 星が瞬く夜空の下を。

 まるでルイが描く絵のように、美しい夜だった。


 ルイはきっと、絵筆を取り上げられれば死んでしまうのだろう。

 二年前、私から離れて、ルイはようやく絵筆をとった。それまでの抑圧され押し込めていた全てを解き放った。


 今はもう、ルイにとって絵を描くことは、呼吸するのと同じぐらい必要なことだ。

 だからきっと、描かなければ死んでしまう。内から溢れ出る何かに食い潰されて。


 私は、どうだろうか。

 きっと、絵筆を取り上げられたぐらいでは死ねない。

 落胆して、悲嘆に暮れて、描きたいと請い願うかも知れないがきっとそれだけ。それだけなのだ。


 私は、天才ではない。


 それでも私は、絵筆を求めて戦うだろう。

 才能よりも確かな、溢れる闘志。私にあるのはそれだけだから。

 描かなければならない、そんなふわんわりした何かよりも、もっと確かな「描きたい」という、強固な己の意志がある。


 なぜ描くのか、何のために描くのか、描き続けたその先に何が在るのか。

 何も無いかもしれない。


 怖くてたまらなくなる時もある。

 それでも、描かないではいられない。

 圧倒的な才能を目の当たりにしてなお、打ちのめされてなお、それでも私の心は折れていない。


 カンヴァスには神様がいる。

 私はその神様に、全てを捧げると誓ったのだ。


 報われずとも構わない。そんな虚構を並べ、それでも私は私の全てを捧げると誓った。


 ルイは、どうだろう。

 私がいなくなったら、私が描くに値しなくなったら、どうするのだろうか。

 違うモチーフを探すんだろうか。

 それとも、筆を折るのだろうか。


 『ヨルちゃん』を描くためなのか。

 『ヨルちゃん』だけを描くのか。


 確かめる術はないけれど、後者であれと願う。

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