8、ルイ
「マスター、枝豆とビール。唐揚げとポテトもちょーだい」
沙希さんの運転で連れてこられたのはもちろん、ホストクラブなどではなく、ルイのバイト先である小さなバーだ。
ボックス席が一つと、後はカウンター席だけの雰囲気が良い隠れ家的なお店。
てっきりあのまま家に帰るのだと思っていた。
ちなみに、ここまでルイは完全に無言。店内に入ってからも無言のまま、私のことも沙希さんのことも見ようとはせず、カウンター奥のスタッフルームへと消えて行った。
店長とは友人同士だという沙希さんは、私だけを引き連れて開店前の店内で、ボックス席を陣取った。
ルイがここで働いているのも、沙希さんの口利きである。
何を聞くまでもなく、なんとなく事情を察したらしいマスターがお絞りを持ってきてくれた。
「沙希ちゃん、うち居酒屋じゃないんだけど」
「知ってる。あと雲丹クリームパスタ食べたい」
「沙希ちゃんだけだよ、そんな無茶言うの」
「我がまま聞いてくれるマスター好きよ」
「はいはい僕も好きですよ。唐揚げとポテトはありません。カルボナーラなら出せるけど」
「マスター大好き」
とびっきりチャーミングにウインクして見せた沙希さんに、マスターは苦笑して手を振った。
そのマスターの背後から、ルイがビールを注いだグラスを二つをプレートに乗せてやって来る。スーツのジャケットだけを脱いで袖を捲ったルイは、その上からお店の黒いエプロンを着けていた。
「はい、ビール二つ」
ただのイケメンみたいな接客用のルイの笑顔。
真っ白な紙製のコースターの上に、水滴を付けたグラス。
どちらもこの場の、今の私には大変居た堪れない存在だ。
「女同士で飲みましょ。はい、カンパイ」
何故かルイはシフトも入っていないはずなのに働いていて、私は沙希さんとこうして冷えたビールを前にしている。
枝豆とチーズをテーブルに配置するルイを伺えば、ばっちりと視線が交差した。
薄暗い店内では、ルイの瞳にあるグリーンはよく見えない。
得るものもないまま、ただ気まずそうに視線を外された。
「瑠衣の顔、好きよね。夜ちゃん」
カウンターの向こう側へ去っていくルイの後姿を見送くる私へと、沙希さんが笑う。
そこに揶揄っているような色は無い。ただの感想なんだろう。
ビールにちびりと口を付け、自分の中に少しずつ冷静さが戻ってきていることを自覚する。
「綺麗なものは好きです」
「まあ、そうね。私も綺麗なものは好き。でも美術品としてじゃないなら、もうちょっと渋い方が好き」
美術品としてじゃないなら。
その言葉で、沙希さんがやんわりと逃げ道を塞いだ。
沙希さんが枝豆を摘まむその指先は、綺麗にフレンチネイルがされている。その姿は、美術品以外の、そういうことを語るのに不足がないような、そんな気がする。
綺麗に着飾ることはせず、かといってなりふり構わずというほど振り切ることもできず、どっちつかずの中途半端な私とは違う。
全部が全部、何もかもが中途半端な私とは。
「瑠衣のことは好き?」
沙希さんから目を背けたその先には、カウンターの向こう側から、心配そうにこちらを見るルイの姿がある。
そして、目が合うと遠慮がちに、ちょっとだけ引き攣った、でもふんわりとした笑みを見せて来た。実に、らしくない笑み。
完璧に作られた、王子様でも天使でもない、ぎこちなく、機嫌を伺うようなそんな笑み。
知ってる。ルイがそんな顔をするのは私にだけだって。
ちゃんと、知ってる。それなのに私は、嫌うことも、大事にすることもできない。
「……嫌いになれたら、きっともっと楽だった」
みっともない私の告白を、沙希さんは微笑んで受け止めてくれた。
「うん、そうね」
私は、画家になりたかった。
たくさん絵を描いて、認められて、何より自分で自分を認めたかった。そういう風になりたかった。
ルイみたいになりたかった。
私がそこに立ちたかった。
その才能が妬ましい。
誰かみたいにとか、そんな風に思いたくなかった。
私は私にしか描けないものを描きたかった。
才能が欲しい。
天才と呼ばれたかった。自分がそうだと思いたかった。
私みたいに、身の丈に合わない夢を見る人は世の中に多くいる。
大半が、ある程度までに自分に見切りを付けて、なれる者になるんだと思う。
そのタイミングを、私はうまく見付けられずにだらだらとここまで来てしまった。
ルイと自分をたくさん傷付けながら。
「私もね、昔は絵を描いてたの。結構上手かったのよ。でも、それだけ。世界は広くて、天才なんて掃いて捨てるほどいる。ただの天才じゃ、すぐ飽きられて捨てられるわ。天才にすらなれないんじゃ、戦う舞台に立つことすらできない。私だって、できることなら自分を売り込みたかった。他人の才能より、私自身の作品で。今はこの仕事好きだし、天職だと思ってる。すごく満足してるけど、焦がれたことは確か。誰かの才能に嫉妬もしたし妬ましかった。才能ある奴全員すごく不幸になればいいって思ってた」
マスターが、湯気を立てているパスタの乗った皿を、私と沙希さんの前に置いた。
卵色のクリームをまとって、ブラックペッパーを散らした上に、鮮やかなオレンジ色をした雲丹が二房、ちょこんと鎮座している。
「雲丹」
沙希さんが嬉しそうに声を上げ、マスターが得意そうに笑う。
「トッピング分ぐらいしかなかったからね」
目を潤ませる私を見て、沙希さんはまるで慈愛に溢れた女神のように微笑んだ。
綺麗なネイルの指先が、銀色のフォークを差し出してくる。
「食べなさい。食べて、また描いたらいいわ」
フォークを受け取った私の指には、雲丹と同じオレンジ色の絵具がこびり付いている。
全然、綺麗じゃない私の指先。それでも、これが私。
この指で、この指が、描いてきた。
「描きたい」
呟いた言葉に、沙希さんが笑みを零した。
「たくさん描きなさい。アナタが描くことを、誰も止めたりなんてしない。だから好きなだけ、満足いくまで描いたらいいわ。描いて描いて描き続けないと見えないものが、きっとあるでしょ」
「何も見えないかも」
「何も見えないってことが見えるかも」
「それ、辛いなあ」
「描かないでいるのは、きっともっと辛いでしょ」
「沙希さんが優しい」
「夢を追う愚か者に、私は優しいのよ」
受け取ったフォークをパスタの中心に刺す。
大きく頬張った最初の一口目、最初に感じたのはブラックペッパーのぴりりとした刺激。
玉子のクリームをまとった温かいパスタは美味しくて、雲丹の優しい甘さが舌の上でとろけていく。
その味に、涙がこぼれた。
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