7、焦がれる特別

 前を向いたままのルイの手が、私の指をそっと剥がした。

 行き場を失くした私の指を掴んだまま、ルイが路肩に車を停める。


「ヨルちゃん」


「……うん」


 ルイの口元が、何かを堪えるように波打って、隠すように、空いた手がその整った顔を覆った。


「ごめんね」


 なんで、ルイが謝るの。


「ヨルちゃん」


 なんで、ルイがそんなに泣きそうな声を出すの。

 なんで。


「ごめん……嫌いにならないで」


 ルイの必死の懇願も、まるで保護フィルム一枚を隔てたかのように私には届かない。


 ううん、違う。

 届いて欲しくない。

 何も聞きたくない。聞かせないで。何も言わないで。


 指先は触れているのに、まるで異なる次元に居るかのよう。

 手を繋いでも、一緒には歩けない。


 こうやって、私たちはどこへも行けず、どうすることもできず、ただ互いの行き止まりへとじりじりと向かうのだ。




 ルイの絵なんて、この一年で散々見てきたはずなのに。

 でもそういえば、体裁を整え『作品』として完成した現物を見たのは、初めてだったかもしれない。

 あの凄みを、目の当たりにしたのは。




 私は、小さい頃から絵を描くのが好きだった。

 クレヨンや色鉛筆で、画用紙やチラシの裏、折紙の裏にまで、あらゆる紙の裏に思いつくまま何かを描いた。

 近所で同じ年頃の子達が、おままごとや鬼ごっこ、公園で駆けずり回る間にも、私は無心で絵を描いていた。

 家の中で絵を描いてばかりいないで、と外へ出されれば、今度はチョークを握りしめ、家周辺のアスファルトをカンヴァスにして、縦横無尽に思うまま描きまくった。

 やがて画材は絵具へと代わり、手には常に絵筆を握り、跳ねた絵の具で顔や手を汚すようになった。


 当時近所に住んでいた母の知人に勧められ、学校とは関係のないコンクールに出品したのが小学校三年生の時。

 その作品が、地元の小さなコンクールで賞を取った。もちろん私は有頂天になった。

 世界は自分に微笑んでいるのだと、神に天つ才を与えられたのだと思った。未来は虹色に輝いると錯覚し、創造と妄想をこの上なく働かせ、歴史に名を遺す巨匠にも並ぶのだと勢い込んだ。


 我が家に引き取られ、同い年の弟になって一年余りのルイが「ぼくもやりたい」と言い出すまでは。


 日本人の母と英国人の父親を持つハーフのルイは、外国の子らしい彫りの深い顔立ちに、ミルクティーみたいな色のふわふわの髪をして、エメラルドのような鮮やかな碧の瞳を持っていて、当時まだ子供らしくふっくらとした頬をして、あどけなく微笑むその姿は絵画に描かれた天使の様だった。


 そんな、まるで天使の様な少年は、残酷な悪魔のように、私の全てを容易く奪い去っていった。

 これこそが天つ才だと、私にまざまざと見せつけた。


 私とは、私が描く絵とは、一線を画す何か。明らかに違う何かがあった。


 それまで学校の授業の時ですらまともな絵を描いていなかったはずのルイは、私が何百何千と書き連ね辿り着いたその先へと容易く到達し、一足飛びに超えて行ったのだ。


 私は、ただちょっと絵が上手いだけの、普通の人間だった。

 私の絵は、ルイの絵を見た瞬間に、ただのゴミになった。




 運転席の窓ガラスをノックする音と共に、運転席側のドアが開いた。


「酷い顔だわ」


 運転席のルイと、助手席の私とを交互に見て、沙希さんは溜息と共に苦笑を零した。


「二人ともね」


 いつの間に、呼んだのだろう。

 ルイが助けを求め、それに応じて来てくれたらしい沙希さんは、互いに袋小路に嵌まり込んだ私たちを見てサングラスを外した。


「夜ちゃん、ごめんなさいね」


 すまなそうに私にかけた言葉は、展覧会を見て行くかと尋ねたことを言っているのだろう。

 そんなの、ただただ私が情けないだけなのに。


「じゃあ、ぼくはこれで」


 運転席を沙希さんに明け渡したルイが、そう言って歩道へと降り立った。

 まあ歩いて帰れない距離ではない。でも。


「瑠衣は後ろに座んなさい」


「いや、ぼく一人で帰るよ。ヨルちゃんのことだけ送ってあげて」


 沙希さんの命令に、ルイはやんわりと拒絶を返す。


「瑠衣は後部座席」


「やだ」


「だめよ。その辺で適当な女引っ掛けて適当に発散して自己嫌悪に染まってその嫌悪感に満足するような不健康バカを一人で放って行くほど、私は放任主義じゃないのよ」


「いつものことじゃない」


 珍しく、ルイが強固に沙希さんの言葉を拒んでいる。

 そればかりか、少しずつ、苛立ちが滲んでる。


「いつもの息抜き程度なら放っておく。今日はだめ」


「なんで」


「いいから、大人の言うことは聞きなさい」


「ぼくも大人だけど」


「自分の感情の処理もできないガキは大人とは言わないわよ」


 背の高いルイが、着崩したスーツのまま沙希さんを見下ろす。

 その視線を真正面から受け止める沙希さんは、溜息を吐いて手に持っていたバッグを運転席へと放り込んだ。


「このまま一人でどっか行くなら、夜ちゃんと二人でホストクラブ行ってアンタ似のイケメン囲って飲み明かしてアフターで3Pするわ」


 何その世界。

 いや、あまりにも違う世界過ぎてほんのちょっぴり興味を惹かれた。断じて体験したいとかそういう意味ではなく。


「……」


 ただ、ちらりと私の顔を見たルイは、何か不本意なものを読み取ったらしい。ルイにとっても私にとっても。

 ほんとに違うし。ホストクラブはちょっと興味あるけど。ちょっとだけ。


 いかにも渋々といった体で後部座席に収まったルイが、少し乱暴にドアを閉めた。そのあまり見せない乱雑さが、ルイの不満を物語っている。


 まるで押し込めれたかのような車内は、気まずいなんてもんじゃない。

 無言で窓の外に顔を向けるルイが全身で拒絶の意を示している。


 走り出した車の中で、三人全員が無言のままだった。

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