6、渇望する指先

 ルイが、卒業旅行と称して外国に行ってしまったあの時、私に人生初の彼氏ができた。

 人生で初めて告白というものをされて、請われるがまま「ちょっと試しに付き合ってみてよ」と、そんなことをはにかみながら言われて、承諾した。

 実際は彼氏未満のものでしかなかったわけだけど。


 ルイのことが頭を過らなかったわけではもちろんない。

 ただ、このままずるずると永遠に引き摺りそうな微妙な空気感への一石を投じられるかもしれない、という打算もあったのだ。

 義理とはいえ弟だし、という気持ちもあった。


 彼氏ができたことを告げた翌日、ルイはそれまで少しもそんな素振りを見せずにいたのに、急に日本を飛び出したのだ。

 一応、就職先だって決まっていたのに、それすらも蹴って。


 自惚れではなく、原因は私にある。いっそ自惚れなら良かったと、何度思ったか知れない。


 私を追いかけるように美大に入学したルイだけど、私との距離は、すごく慎重に測っていたのだと思う。

 私を慕っていること自体を隠す素振りは無かったから、それは私も、そして私たちの周囲も皆分かってた。

 でも付かず離れず、私にとって心地良い距離感を、ルイは慎重過ぎる程慎重に見極めていた。


 大学でのルイの専攻は美術史・芸術理論。

 就職先だって、絵画を扱う部署もあるにはある程度の一般企業。

 ルイが自ら絵筆を握ることは決してなかった。


 だから、私は気付かなかったのだ。

 ルイのその想いの、その深さと重さが、どれ程のものであるのか。

 絵筆を取らないという、その事実こそが、気持ちの大きさを表していたのに。


 連絡先も分からず、連絡手段もなく、ただ一年間、月一で届くポストカードだけが生存を示す。

 ポストカードが届く度に涙が出るほど安堵して、次に届くまでの期間、気が狂いそうになりながら過ごした。


 探す当てなんてないまま、届いたポストカードを握りしめて渡航しようとしたのも一度や二度ではない。

 その度に周囲に止められ実現はしなかったものの、ルイのその行動は私を打ちのめした。

 私の行動が、ルイを打ちのめしたのと、同じくらい。


 当然のように彼氏未満のその男性とは長続きしなかったし、それどころか私はちょっと病んでいったんだと思う。

 実際、強制的に精神科に連れて行かれるぐらいだったから、まあ傍から見ても相当追い詰められていたのだろう。


 私のせいで、ルイが死んでしまうかもしれない。本当に、そう思った。


 何度もルイが死ぬ夢を見た。いつ来るかもしれない訃報に怯え、テレビで速報が流れるだけで、持っていたコップを取り落すぐらい動揺した。


 当時の私の心配は、決して杞憂ではなかったと思う。

 ルイは、きっと死に場所を探していたのだ。死に場所を探して、彷徨っていたのだと思う。


 旅立ちから約十か月が経過した頃、ルイの代わりにルイが生きていることを連絡してきたのが、当時パリで画商として活動をしていた沙希さんである。

 ルイにとってはもちろんのこと、私にとって、姫宮家にとっても沙希さんは恩人である。


 ルイが日本に戻ったのは、首の皮一枚の奇跡みたいな幸運によるもので、周囲の大人たちが、ルイを、その才能を生かすために、心を砕いたからに他ならない。


 あんな思いをするのは、二度とごめんだって、そう思ってる。

 それもちゃんと、本当のこと。




 ルイがギャラリーから解放されて戻ってきたのは午後三時を過ぎた頃。


「お待たせ」


 固めていた髪を掻きまわしながら助手席に乗り込んだルイは、ネクタイを緩めた。


「お疲れさま」


 実に様になる仕草だと思う。

 深い息を吐いてシートに凭れたルイの視線が私を伺う。

 私があの場にいたこと、ルイの絵を見たことには互いに触れない。


 少なくとも表面を装おうことができる程度の冷静さを取り戻した私は、いつも通り、ごく普通に…………普通……?


 普通って、どんなだっけ?

 普段、どうしてたっけ。

 手の位置は?

 指は動かす?

 視線はどこにやればいい?

 こういう時、私どういう顔をしてた?


「つかれた」


「……」


 ルイのいつも通りのそれに、急速に混乱を始めた私は無言しか返せない。


「……ヨルちゃん?」


「うん」


 ルイが私を見て、ごく自然な仕草で首を傾げた。


「スーパー、行くんでしょ。お肉買わないとね」


「うん」


「運転、代ろうか」


「だいじょうぶ」


 ルイは、普段通り。

 私はそれに、不格好で精一杯な普段通りを返す。


「でも、ぼくちょっと運転したい気分。代わって欲しいな?」


 ルイは、優しい。


 全然上手く普段通りが出来ていない私の醜態には触れず、ただ遠回りな確認をして、私を助手席へ、自分は運転席へと座り込んだ。


 絵筆を握るためにあるその手が、ミラーに触れる。ハンドルを握りこむ指先。

 助手席で揺られながら、役立たずな私はただぼんやりと無益な思考をするだけ。


 美しいあの夜空とは、似ても似つかない無様な私。

 ルイの目に、今の私はどう映るだろう。


 私は今この瞬間もまだ、ルイの『ヨルちゃん』でいるだろうか。

 ミューズでも女神でもない自分を望みながら、それでもあの絵に見合う自分で在りたいなんて、身勝手で滑稽なことを思う私なんかが。


 なんで、私はこんな浅ましいことしか考えられないんだろう。

 こんなだから、ルイのように、描けないのだろうか。

 どうしたら、ルイみたいに、息を呑むような、心を掻き乱すような絵が描けるんだろう。


 私に、その指先があれば良かったのに。

 それとも、必要なのは思考する脳だろうか、何かを感じる心だろうか。


 ルイは何をもって描くのだろう。

 ルイのどの部分があれば、私もあんな風に描けるのだろうか。

 何が足りないのだろう。

 ルイにあって、私にないものはなんだろう。


「――ヨルちゃん」


 ルイが私を呼ぶ声に、はっとする。


 気が付けば、車を運転するルイの手を掴んでいた。

 焦がれてやまない、その手を。

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