5、価値ある者
『彼氏』『男性』『好きな人』
近しい言葉を頭の中で並べてみても、そこに現実味は伴わない。
ルイにとっては地雷で、私にとっては非現実的な存在である。
『彼氏』なんて、私から今最も遠い存在じゃないだろうか。
どう考えてもお年頃の私だけど、悲しいかな、現在そういう相手はいない。相手候補すらもおらず、ただ私と同じ髪の長さ髪の色の人を選んでイメクラ遊びに励む弟の存在があるだけだ。
「悩まし気。じゃあそうね、とうとう瑠衣に絆されそうとか?」
弟とはいえ、血の繋がりは無いようなもの。倫理観も法律も、ルイの気持ちを妨げはしない。
ルイが上等な男なのは、私だってよく分かってる。
内側も外側も。その上等な男が、私に特別優しい。
ぐらっと来ることが、皆無と言えば嘘になる。文字通り、同じ釜の飯を食べて過ごしたのだ。情だってある。
ただ同じぐらい、それより遥かに、湧き上がるものがあるというだけで。
「私だって、彼氏が欲しいなー、と思うことぐらいはありますけどね」
半分冗談、半分本音。
ルイは私への好意を隠さない。ただ、決定的な言葉にすることもない。
私に彼氏がいれば、そういう存在ができれば、きっと何かが変わるだろう。
そういう存在が、ちゃんといたら、今のこの現状も違うものになっていただろう。
ルイからの好意を浴びせかけられて、さりとて応えることもせず、はぐらかし続けて今に至る。
私も、そしてルイも、既に身動きが取れなくなっているのだ。
もし今、例えば私に『彼氏』などというものができたら、この息が詰まるような関係に、何かしらの変化はあるだろう。
あの時みたいに。
息が詰まるから、息が止まる、に変化するだけだろうけど。
「……私に止める権利は無いけど、どうかしら、それ」
「分かってます。大丈夫ですよ」
もちろん、想像するだけに留めるつもりしかない。
私だって、今さら誰かと付き合うとか、そんなことは思っていない。
それに、沙希さんの懸念も分かる。その懸念は真っ当なもので、私も共有するものだ。
「でも、そうね。ずっと今みたいなわけには、いかないものね」
私の覚悟も、ルイの想いも、全てを呑み込んでそう言ってくれるのは、沙希さんの優しさに他ならない。
まだ若いんだから、そう言ってくれたのは、出会ってすぐのことだった気がする。
まだ若いんだから、縛られ過ぎないで。そんな、人生の先輩からの優しいアドバイスだ。
それなのにこうして、私もルイもお互いに雁字搦めにしてばかりいる。
雁字搦めになって身動き取れないでいる私たちに、私にも、まだこうやって言ってくれる。
プロモーターという立場以上の優しさを示してくれる沙希さんに、私たちはただ甘え続けている。
「万が一彼氏ができたら、瑠衣より先に教えてちょうだい。お願いだから」
私は口にすべき言葉を見つけられず、ただ曖昧に頷いた。
沙希さんは苦笑して、サングラスをかける。
「中、見ていく? 見るなら、タダでいいわよ」
助手席のドアを開きながら言う沙希さんの言葉に、今度こそ私は言葉に詰まった。
「別に見てきなさい、って言ってるわけじゃないわ」
展覧会の目玉は、海外で名が知れ始めている『ルイ・ヒメミヤ』の作品である。
沙希さんが仕掛けた日本でのプロモーション、その第一歩。
「……見ていきます」
そう応えたのは、純粋な展覧会に対する興味が一割、残りの九割は意地だった。
ギャラリーはそこそこ賑わっていた。
特に巨匠と呼ばれる有名な展示でもない限り、そうそう賑わう事も無いのが日本の、特に絵画の展覧会である。
まして今回集められたのは無名の若手ばかり。今この場にいるのはほぼ画壇の関係者、もしくは作者の近親者とかだろう。
どこか浮ついた空気の中で、展覧会の目玉は、一番大きな中央の空間に王者の如く坐していた。
壁一面の大きなカンヴァス。
この場所に作品を飾られる、その栄誉をルイは理解しているだろうか。
有り難がっているだろうか。
存在感を放つルイの絵から微妙に視線を外せば、ルイの絵を見る人々の姿を目の当たりにする。
感嘆、あるいは羨望。
ただこの場所にあるから、というそれだけではない。
ルイの絵は、見る者の心を揺さぶり、感情を動かす。
ルイの絵の周りで、長めに時間をとる人が多くいる。
少し離れたところで、幾人かに囲まれているルイがいた。にこやかに対応するルイは、私に気付くと、穏やかな笑みを浮かべた。
私は、うまく笑えただろうか。あまり、自信が無い。
暫く逡巡している間に、人の波が途切れた。私は覚悟を決めて、ルイの絵の正面に立つ。
「ああ……」
思わず、感嘆の声が漏れた。
目の前に広がるのは、呼吸すら忘れそうなぐらいの鮮烈な空気。
美しいという言葉すらも陳腐な『夜』がそこには在る。夜を支配する残酷で気高い女王は、同時に慈愛に溢れたエロティックな女神。
カンヴァスいっぱいに描かれたその絵は、決して私には描くことのできない私である。
こうやって、ルイは何度でも私を打ちのめす。
そこからどうしたのかあまりよく覚えていない。
気付けば車の運転席で、私は一人、ぼんやりと夜に満たない空を眺めていた。
『ルイ・ヒメミヤ』のミューズ。
それが、私の価値だ。
ルイにあの絵を描かせることができる、唯一の存在。そのイマジネーションの源。
ミューズは、芸術家にとって発想の原点でもあり、ともすれば不安定な心の拠り所でもある。
過去にいた偉大なる芸術家に寄り添う、ミューズ、或いは女神、そう呼ばれる存在は度々指摘される。有名なところでは、ピカソにとってのマリー=テレーズ。
多くが女性で、その芸術家の恋人だったり人生のパートナーだったりする。
どんな形であれ、ミューズの存在は、その芸術家の全てを左右するまさに神と呼べる存在である。
ルイにとっての、私がそれだ。
この世界は残酷だ。
私に求められるのは、決して絵筆を持つことなどではない。
ルイの絵は、いつだって私にその現実を突きつける。
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