夜の女神:side瑠衣
1、姫宮夜子
夜を描く。
美しく、残酷な、夜の女神を。
真っ白なカンヴァスに塗り広げた絵具で、ぼくの中に存在する、ぼくだけの女神を描く。
決して手に入ることのない、ぼくの女神を、描き続ける。
◆◆◆
「ルイー?」
ぼくを呼ぶその声に、意識が浮上する。ふわふわとした微睡みの中、感じる気配に口元が自然と緩んだ。
「ルイ、起きて!」
「ん……」
昇り切った日に照らされた見慣れた天井。
代り映えしない普段通りの天井をバックにぼくを覗き込むのは、一週間ぶりに顔を合わせる義理の姉。黒いさらさらの髪を一つにまとめたその姿は、凛々しくてそれでいてふんわりと可愛い。
「ん、ヨルちゃん」
隣に引き込もうと伸ばした腕は、妄想の中だけでしか動かなかった。
まあ、そういうこともあるだろう。むしろそういうことしかない。
虚しい現実に背を向けて、再び幸せな夢の中へ戻ろうとしたぼくの意識は、強めに呼びかける声によってその行く手を遮られた。
「ルイ! 起きろ!」
がばっとタオルケットをめくられて、冷気と叫び声とに覚醒を促される。
他の誰かにやられたら苛つくだけのそんな行動すらも可愛い。惚れた欲目が働いて、世界で一番可愛いとすら思う。
寝ぼけた思考でもそこまで考えられるのだから、相当重症だ。
「ちょっと!!!! 服ぐらい着ててよ!」
「んー」
すぐさま戻されたタオルケットだけど、どうやらもう夢の世界には戻れない。完全に目が覚めた。
ぼくを起こすことに成功した「本物の」ヨルちゃんが、居た堪れないという風に頬を染めている。やっぱり、可愛い。触りたい。
「おはよ」
「はい! おはよう!」
誤魔化すように張り上げた声に、思わず笑みが零れた。
いつも通りの虚しい現実だけど、こうしてヨルちゃんに起こされる朝ってのはそう悪くもない。まるで新婚さんみたいで、ちょっと嬉しい。そして虚しい。
昨夜の延長みたいな気分になる。完全に錯覚だけど。
この一年で、自分の妄想力にどんどん磨きがかかっていくのを感じる。
そのまま立ち上がれば、ヨルちゃんが慌てて身体を反転させた。
ほんと、自分でもどうかしてると思う。まるで男だと意識されているみたいだ、とかこれもまた錯覚もいいところだ。
でも、そういう妄想ぐらいは許して欲しい。
「別に見てもいいのに」
そのために鍛えてるから。
むしろ絵のモデルとして使ってくれても構わない。そんな日来ないって知ってるけど、ヌードモデルだってこなす自信がある。最近腹筋も割れてきた。
ダビデ像みたいになったら、せめて彼らぐらい好いてくれるだろうか。
男として見れないなら、せめて美術品として愛でて欲しい。
実際のところ、あくまで常識に則って照れて見せてるだけで、ヨルちゃんにとってぼくの裸なんて大理石でできた彫像と大差ない。
いっそこっそりやってる筋トレとか全部止めて太って見せたら、彫像と比較する気も失せるだろうか。
いや、それで万一ガッカリした、みたいな顔でもされたら死にたくなるか。
「セクハラ」
だよね。一応ね。そうだよね。
周りに落ちている服を拾い始めたヨルちゃんは、その口調とは裏腹に、丁寧に服を拾い集めている。
床やテーブル、至る所に放り出した開きっぱなしの写真集はそのまま。ぼくが気になった風景、その開いたページをそのままにしておいてくれる。
それは、ぼくにとってぬるま湯のような心地良い距離感だ。
そういえば、昨夜の女の人はいつの間にか帰ったらしい。ヨルちゃん以外に人がいる気配はない。
とりあえずシャワー、と入った脱衣所には湿ったバスタオル。浴室を覗けば、使用したと思しき形跡が残っている。
たまにわざとらしい忘れ物を置いていく面倒な人もいるけど、昨夜の人はそういうんではなかったらしい。とりあえず目に付く範囲では。
それは大変助かるけど、まだ浴室内がほのかに温かい。ヨルちゃんと、遭遇しちゃったかもしれないな。
まあ、したからって、どうってこともないんだろうけど。
ヨルちゃんと同じぐらいの髪の長さで、ちょうど良かったなあ、なんて思うぼくはだいぶやられていると思う。
「って、急いでルイ! あと十分で支度して! すぐ出るよ!」
「じゃあ五分で済ます」
熱いシャワーで邪念じみた欲を流す。
流しきったら、後に残るものはあるだろうか。
小さい頃の記憶は断片的でしかない。
事故で亡くなったという実の両親のこと、その後引き取られた親類の家でのこと。
当時感じていたらしき薄っすらとした自身の感情と、目にしたと思しき光景が、細切れの記憶として残っている。
医者に、記憶の断裂はショックによるものだろうとかなんとか言われたが、そのショックの由来については疑わしいことばかりだ。
母が日本人、父は英国人。生まれ育ちも日本であり、英国に居たこともなければ、行ったこともない。
写真で見る両親は、どうやらいわゆる美男美女。
そしてそんな二人の血を引いてハーフで生まれたぼくは、天使と見紛うほどに秀でた容貌をしていた。
そりゃあもう、引き取られた先の家で、そこにいる大人たちの性癖を歪ませるぐらい。
その辺りのことは、大人になってから、徐々に思い出したことだ。
はっきりと思い出したわけではないけど、まあそういうことなんだと思う。
胸糞悪いとは思うけど、今一つはっきり覚えてないので、自分の事とはいえ何とも捉えようがない。
とにかく、記憶と一緒に何か大切なものも欠落したらしい。
実際に何が起きたのか、ぼくには判らない。
覚えてない。
分かることと云えば、その家が火事で燃えたこと、その家にいた義父と義母、義兄と義妹の四人全員が死んで、ぼくだけが助かったこと。
出火の原因は火元の不注意、ということらしいが、どうだろう。
当時のぼくは、怯えと共に有り余る殺意を、天使と称された笑顔の裏に隠していた。
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