2、義姉

 火事の原因だと疑われるぐらいはしたのかもしれないが、当時まだあどけない子どもである。少なくと見た目の上では。

 ショック状態で放心し、証拠も何もなかったのだろう。

 結果、ぼくはたまたま運良く助かっただけの哀れで可哀そうな子どもになった。


 まあ実際、哀れで可哀そうなことは事実だろう。真相がどうあれ。


 その後ぼくは親類の家を転々とした後、施設でしばらくの期間を過ごした。

 この辺りについても、あまり良い思い出はない。

 ぼくの置かれた状況を知り、思うところのあった遠縁の姫宮ひめみや菜々子ななこさんがぼくを引き取りたいと名乗りを上げるまでは。


 生前の実母と親しかったという菜々子さんとの出会いは、ぼくの人生における数少ない幸運の一つである。

 駆け落ち同然で結婚した両親、残された曰くありげで、外面ばかりを取り繕った可愛げのない子どもを倦厭する大人が多かったことも含めて。


 姫宮家は、父親が病気で亡くなったばかり。

 朗らかに笑う菜々子さんと、ぼくと同い年の娘の二人暮らしだった。

 二人だけの姫宮家にぼくが加わって三人家族になったのは、ヨルちゃんとぼく、互いが小学校二年生になったばかりの時である。


 姫宮さんの一人娘、姫宮ひめみや夜子よるこ。ヨルちゃんと出会ったのは、その時が最初だ。


 その頃のぼくと言えば、その天使面とは裏腹に、内面はすっかり冷めきった可愛げのない世の中と大人を舐め切ったクソガキだった。

 天使の容貌をもってしても親類縁者から揃って倦厭されるほどなので、まあよっぽどだろう。明らかにトラブルメーカーで、どう擁護したって問題児だったと自分でも思う。


 それでも、菜々子さんは実に根気強く優しく厳しくぼくに応対し、ヨルちゃんも、まあ優しかった。

 うん、優しかった。優しくはあった。一応。

 親切で丁寧ではあったし、突然できた弟に、甲斐甲斐しく世話は焼いてくれたけど、実際のところ、ヨルちゃんはあまりぼくに関心がなかったのだと思う。


 紙でも絵具でもなく、ダ・ヴィンチでもラファエロでもないただの子どもでは、ヨルちゃんが興味を持つような要素が何一つないのだから仕方がない。


 ただ、ぼくにはそれが新鮮だった。

 大抵の人にとってぼくの外見は好ましく、そうでなければ妬みの対象。

 執拗に構われ、その境遇を哀れみ、無遠慮な視線に晒され、どいつもこいつも死んでしまえと思う程度にはウザい奴らばかり。

 それが常だったぼくに、その隠しきれていない無関心は、ぼく自身の興味をものすごく掻き立てた。


 ヨルちゃんは、とにかくずっと絵を描いていた。

 画用紙いっぱいに自由な世界を創り上げた。

 自由帳も、落書帳も、スケッチブックもすぐにいっぱいにして、姫宮家の家の前、歩道も車道もアスファルトの全てがヨルちゃんのカンヴァスだった。


 現実にいるただ容貌が秀でているだけのつまらないぼくなんかよりもずっと、夢中になるべきものをヨルちゃんは知っていた。


 周囲で姦しく騒ぎ立てる誰かといるよりも、一人真剣に、自由に、この上なく愉しそうに、何かを描き続けるヨルちゃんの姿を見ているのは楽しかった。

 邪険にされることも、執拗に構われることもない適度な距離感が、気に入っていたし好きだった。

 その静かで穏やかな時間と同じように、ヨルちゃん自身を想うようになっていったのは、必然だったと言えるだろう。


 淡い恋心未満のそれはしかし、ぼく自身の不用意な発言によって、全てが泡沫の夢となった。


「ぼくもやりたい」


 ぼくも、ヨルちゃんと同じことがしたい。その程度の思い付きによる発言だったと思う。

 ずっと悔いている。

 そんなことは言わずに、ただ、ずっと傍で見ていれば良かったのに。


 絵筆を握った瞬間のことは、今でもよく覚えている。

 ぼくは夜の風景を描いた。ヨルちゃんを想って。

 そしてそんな瞬間よりも遥かに鮮明に、完成したその絵を見たヨルちゃんの表情を、よく覚えている。


 あの時に、ぼくの初恋は砕け散ったのだ。

 修復不可能なほど無残に、完膚なきまでに。




 急いでシャワーを浴びてリビングに戻ると、ヨルちゃんはぼくが着る予定のスーツを片手にアトリエとして使ってるサンルームに立っていた。

 そういえば、クリーニングに出していたスーツを片付けるのを忘れてた気がする。すごく今さらだけど、先週の去り際ヨルちゃんからそんな感じのことを言われた。多分。

 まあそんなことはどうでもいい。


 ぼくの目は、ヨルちゃんの姿を脳裏に模写して焼き付けることに忙しい。


 陽が差し込む明るく白い空間に、空色のシャツを着たヨルちゃんが色を添える。

 カンヴァスに塗った色と程よいグラデーション、というにはちょっと無理があるか。

 もう少し、夜明けを思わせるような、明るい色に塗り直そうかな。


 イーゼルにかかっているカンヴァスは、まだ地の色を塗っただけの状態だ。なんかしっくりこなくて、何度も塗り直してる。


 あれならまあ、見たところで大したものではないだろう。

 ヨルちゃんには、なるだけ完成した絵や、完成間近な絵は見せたくない。

 誰のためでもない。ぼくのために。


 見て欲しい、そう思う気持ちが無いと言えば嘘になる。

 描き続けるのは、夜の世界。夜の空を、ただ一人を想って描き続けている。

 云わばラブレターのようなものだ。


 見て欲しい。でも、見ないで欲しい。

 ヨルちゃんが心を掻き乱したその先にある感情が、それが自分に向けられることが恐ろしい。

 そんなことになるぐらいなら、見られない方がいい。


 堂々巡りの思考の末、この一年の間、ぼくはヨルちゃんから絵をさりげなく隠すことに成功している

 ヨルちゃんが来るであろう日は、まだ白いカンヴァスか、手を付けたばかりのものを立て掛けることにして。


「上がったよ」


 どこかぼんやりと、ぼくを見上げるヨルちゃんの目、そこに今はどんな感情も読み取れない。

 読み取れないなら、それでいい。

 それでいいはずなのに、感じるのは僅かな苛立ち。不満。本当は、傷付けてやりたいと思ってる。

 その心に爪を立てて、消えない痕を残したい。


 シャワーで流したはずの気持ちが込み上げる。

 それらを全て、今度はスーツの下に押し込んで、ぼくは笑って見せた。

 ヨルちゃんに、目隠しするみたいに。


「じゃあ、行こうか」




 いっそ、知らなければよかった。絵なんて描かなければよかった。

 そう思ったことは、一度や二度じゃない。

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