3、恋しい君
『ルイ・ヒメミヤ』は、ぼく姫宮瑠衣の本名をカタカナにしただけのペンネームである。
趣味の延長、それどころか絵筆を持つことすらないままで終わるはずだったぼくは、現在肩書を『画家』として過ごしている。
一応バーの店員としてバイトもしてるけど、そっちは、あくまで生活にある程度の規則性を持たせるためのもの。
乏しい人間性を忘れないため、というのはルイ・ヒメミヤのプロモーターでもある
シフトは週に三回程度、大体夕方から店に立ち、お酒をグラスに注いだり、料理を出したり、食器を下げたり洗ったり。見よう見まねで教えられたとおりにカクテルを作ってみることもある。
後は適当に愛想を振りまいて深夜を回れば帰宅。ちなみにお酒は一滴も飲めない。
たまに声をかけてきた適当な女の人に相手をしてもらって運動的発散をして、無料動画を見ながら適当に筋トレする以外、後はただ延々と絵筆を握る。
カンヴァスに描くのは、いつだって
血の繋がらない同い年の義姉。
まあ姉なんて、思ったことはないけど。
大好きで、世界一大切にしたいと願う、ヨルちゃん。
そして、ぼくのことを、ぼくのこの才能を妬み、羨み、憎むひと。
自分にはどうやら才能があるのかもしれない、そんな笑っちゃうような事実に気付いたのは、初めて絵筆を握った時だ。
初めて絵を描いたあの時。その絵を目にした、ヨルちゃんを見た時。
本当は、才能というほど確かなものを思ったわけじゃない。
ただ、ヨルちゃんがぼくが描くことを歓迎しない、というのは痛いほど感じた。
空気を読めないほどの馬鹿でなくて良かった。それだけが、せめてもの慰めである。
当時のぼくはまだ子どもだったが、それでもあの瞬間、それまでで一番なんじゃないかと思う速度で思考巡らせ、その時の最善足り得る結論を最速で叩き出した。
すぐに絵をヨルちゃんの目から隠し、誰にも見られないように念入りに破いて処分した。
そして二度と絵筆を握らないと心に決めた。
ぼくなりの生存戦略である。
小学校、中学校、高校も、授業で描かなければならない時は、適当に周囲の皆が描く絵を参考にして、つまらない絵を描いた。
もちろん、ぼくのその才能に嫉妬したヨルちゃんが、そのせいでぼくに何かをしたことはない。
ただぼくが、人の顔色を窺って生きる類の人間だった、というだけだ。
ヨルちゃんと真っ白なカンヴァス。
当時のぼくには、それだけが心の拠り所だったから。
今でも大差ないけど。
ともかく、それ以外の何にも興味の湧かなかったぼくは、大学選びに迷った結果、ヨルちゃんと同じく美術学校へ進学した。
進学せずそのまま働いても良かったし、むしろそのつもりだったわけだけど、無気力なくせにぼくはそこそこ勉強ができたので、周囲の勧めに流されることにした。
中学高校に引き続きヨルちゃんと同じ学校でキャンパスライフをもう四年。
それも悪くない、そういうどうしようもない欲に駆られたとも言える。
教師の一人が示唆した、国立の大学への進学。当時は一人家を離れるなんて考えもしなかったけど、今思えばありだったのかもしれない。
いや、やっぱ無いか。
四年もヨルちゃんと離れてたら、たぶん寂しさで死んでいたただろう。
ただ、今とは違う未来が待っていたのかもな、なんて考えているだけだ。
美術史と芸術理論を学びながら、常に描きたいという欲求は付いて回った。
正直に言えば、描きたかった。過去の知らない他人の絵なんて眺めるよりも、ぼくはぼく自身で絵筆を握りたかった。
心の中に思い描いたその情景を、カンヴァスに写したいと、ずっと思ってた。
しかしそれらのぼんやりした気持ちが完全に形を成す前に、ぼくは自分の中から排除した。
描きたいという欲求よりも、遥かに大切にしたいものがあったから。
ぼくの中の決して揺るがない優先順位。
ぼくはただ、それに忠実であり続けていた。
ヨルちゃんの運転で展覧会の会場となるギャラリーに到着した。車のエンジンを切ったのを見計らい、ヨルちゃんの手にポケットに突っ込んだままにしていたネクタイを押し付ける。
「やって」
「なんで」
もちろんネクタイぐらい自分で締められる。それでも、やって欲しいと思う気持ちを分かって欲しい。
口で拒みながらも、ヨルちゃんはぼくの首元に手を伸ばした。
シャツの襟の下にネクタイを通すその仕草が、まるで首に腕を回されようとしているみたいだ、なんて沸いた頭で考える自分が少し可哀そうになってきた。
ヨルちゃんの右手、人差し指の爪の横に、マンダリンオレンジの絵具が付いている。
きっとまた、何か陽が差すような明るいモチーフを描いているんだろう。
ふんわりと香るのは、姫宮家でずっと使っている固形石鹸の香りだ。ぼくが使っているものと同じ。
嗅ぎなれた香りに、少しだけ理性が戻る。
世間的には同じ石鹸の香り、なんて情事を思わせるものなんだろうけど。
かち合った視線、その瞳に浮かぶのは僅かな動揺。
たまに見せるそれが、ぼくをどんどん欲深にしていくことに、ヨルちゃんは気付いているだろうか。
「ヨルちゃん」
「何」
「夕飯、一緒に食べよ?」
例えば、ホテルのレストランでディナーとか、いいと思うんだ。
とびっきり気取ったコース料理を食べて、皿にちょこっとしか乗っていない甘いデザートを楽しんで、ヨルちゃんはワインでも飲んでいい気分になってくれればいい。
そして実は部屋をとってあるんだ、なんてやつ、一回ぐらいやってみたいんだよね。
なあんて。
いいでしょ? と甘えるように微笑んで見せれば、ヨルちゃんはほんの一瞬返答に詰まる。
その目は、明らかにぼくの中の不埒な欲に気付いていた。もっと鈍感でいろよ、と思ってしまうぼくがいる。
「……じゃあ久しぶりにすき焼きしよっか。母さんと三人で」
笑顔で返されて、仕方なく、ぼくも何も知らず気付かずただの弟の振りをした。そんなデートみたいなディナー、あり得ないって分かってたし。
なんて、残酷な君。
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