4、渇望するひと

 展覧会の会場では、展覧会のスポンサー、画壇の関係者、よく分からない肩書の人たちに散々引き合わされて、ぼくの中を上滑りするばかりの言葉をバリエーション豊かに散々かけられた。

 それらを要約すれば「期待してる」だ。


 知らない誰かの上滑りした激励が、一体何の役に立つと思っているのだろう。


「顔、引き攣ってるわよ」


 順番待ちでもしているのか、っていうぐらい絶え間なく話しかけてくる人が途切れた隙を見計らってか、隣に立ったのは現在ぼくのプロモーターを務めている沙希さきさんである。

 笹川ささかわ沙希さきさんは、ぼくのためもあってこうして日本での滞在期間を長くしてくれている、本来はパリを拠点とする画商である。


 日本では周囲を圧するばかりのゼブラ柄の派手なスーツ、どこからどう見ても勝気で強気な印象を与えてくる、その通りの人柄だ。

 怒らせると怖いし面倒だし、世話になっているし、一応従順に振舞うことにしている。

 とはいえ、沙希さんの顔を立てたところで疲労の軽減はない。


「もう帰りたい」


「右に同じ」


 冗談めかして微笑む沙希さんが、そう言ってペットボトルのお茶を押し付けてきた。

 つまり、もうちょっとがんばれ、だ。


 手渡されたペットボトルの冷たさに、先程ちらりと見かけたヨルちゃんの姿が思い出された。

 展覧会の目玉として飾られた、ぼくの絵。その前に立っていた、その姿を。


 来た時と同じように、帰りもヨルちゃんが送ってくれることになっている。

 実際のところ、ぼくだっていい大人なので、ギャラリーと自宅の往復ぐらいは自分でどうとでもなる。

 ただどうやらぼくは、一人で放るとその辺で野垂れ死ぬと思われているらしい。まあ、否定はしない。


 ぼくの帰りを待つ間、てっきりどこかで時間を潰しに行くか、一旦帰宅するのだと思っていたのに。


 ヨルちゃんが自発的にギャラリーの中に入ってくることなんて考えにくい。

 絵の前に立っていたのはほんの一分かそこらだけど、踵を返すその姿から、動揺を読み取るのはぼくでなくても容易だったろう。


 追いかけたり、声をかけたりをしなかったのは、ぼくの情けなさでもある。

 本当は、どこかの誰かに延々とくだらない話を聞かされている今までの時間が、ぼくにとって、必要な時間だった。


「……ヨルちゃんが、見てた」


 お茶を飲む。

 口内を満たす苦み。

 冷たいそれをいくら摂取したところで、癒えない渇きがある。


「そう」


 沙希さんが、ちらりとぼくに視線を寄越す。


「沙希さんが見せたの?」


「そうとも言えるかも」


 何でもないことのように、沙希さんは応える。

 まあ、実際何でもないのだ。本来なら。ぼくの保身とか、色々あるだけで。


 それに、どんなご立派な壁に飾られようともただの絵だ。

 カンヴァスを絵具で塗っただけ。木枠に納めたただの布。


 酷い、欺瞞だけど。


「怒る?」


 ぼくが怒ったところで少しも堪えたりしないんだろう、大人の笑みを浮かべ、沙希さんがぼくを見上げてきた。

 見上げられてるのに、心理的には一切そんな気分にならない。


「ヨルちゃんが、自分で見るって決めたんでしょ」


 たくさん絵を見て、芸術に触れて、たくさん心を動かして、創作意欲へと繋げる。

 多くの芸術家、クリエイターを志す人たちがそうであるように、ヨルちゃんもひた向きにそう在ろうとするから。


 ぼくなんかの絵が、ヨルちゃんのその心の糧になるのなら本望だ。

 ついでに何かが届いて、思い知ってくれたらいい。


 でも、きっとそうはならない。

 そんな風になれるなら、ここまで拗れたりしてない。


 でも、責めても仕方ないとも思う。沙希さんを責めるのはお門違い。

 分かってる。ぼくは十分、理解している。


「ぼくね、ヨルちゃんの絵が好きだよ」


 ヨルちゃんは自分には才能がないと思っているようだが、実際はそんなことない。少なくともぼくはそう思っている。

 もちろんそこに贔屓目が皆無とは言えないけど、ヨルちゃんの生真面目で、丁寧で、緻密に計算され尽くした美しい絵は、ぼくには描けない。

 カンヴァスから溢れんばかりの偏愛と執着、それが評価できないこの世界にこそ、一体どんな価値があると云うのだろう。

 あの美しい絵を理解できない奴らがみんなどうかしているだけだ。


「私も好きよ」


 沙希さんのその言葉に、微かな苛立ちが形を成していく。


「でも、売らないんだ?」


「慈善事業じゃないからね。私が商品として扱うには、そうね、華が足りない」


 沙希さんの指先が、視線の先、ぼくの絵を指す。幾人かが足を止め、眺めるその姿を。


「ルイ・ヒメミヤの絵の方が需要があるのよ」


 それに関してぼくは何も言えない。さすがに、そんなことはないと言えるほど、盲目なつもりはない。

 さらにその先に続く言葉も、容易に想像がついてしまう。


「あの子、あなたが傍にいる限り駄目よ。ものにはならない」


 断罪するかのように、沙希さんのその指先が今度はぼくへと向けられる。断罪されるのは、ぼくか、それともヨルちゃんだろうか。


「でも、あの子がいないとあなたが描けない。そうでしょ? どちらかを選ぶなら、私はルイ・ヒメミヤを取る」


 もしぼくがいなかったら、きっと沙希さんはヨルちゃんを、ヨルちゃんの絵をどうにかしようと動いてくれるのだろうか。世に名を遺す巨匠まではいかずとも、きっと何らかの手段を講じて描いていくことを手助けする、そんな気がする。


 結局、ぼくらはこうなのだ。互いに互いを縛り付け、もうどこへ向かうこともできない。

 ぼくはただ、この癒えない渇きを抱え続け、ただ絵筆を握り続けることしかできない。

 まるで呪いのように、捨て去ることができない。


「不満? でも、それでいいって私は思ってる。満たされた芸術家なんて、きっと何も生み出せないから」


 全てを見通す沙希さんが、その口から言葉を紡ぐ。渇いてからからになったぼくの心を抉り、トドメを刺すみたいに。


「満たされない癒えない渇きを、その渇望を糧にする。その狂気が人の心を動かすものを生み出すの」


 狂気。

 そう、それだ。

 ぼくの中には狂気が潜む。そして、ヨルちゃんの中にも。


 沙希さんの言ってることが理解できないわけじゃない。まあ、そうなんだろうと思う。


 絵を描くことは好きだ。

 カンヴァスに向き合う時間が好きだし、結局のところ、ぼくは描かずにはいられない。

 一度知ってしまったらもう戻れない。

 心のまま、思うままカンヴァスに絵筆を走らせる快楽を。


 でも、それでもその渇望するものが手に入るなら、ぼくは絵筆なんて二度と持てなくて構わない。


「……そんなもの、なくてもいい」


 狂気なんていらない。

 才能なんてなくていい。

 何よりも得難いと思うものは、カンヴァスの外にある。


「それを、渇望と呼ぶのよ」


 沙希さんの、赤い唇が弧を描いた。

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