3、義弟

 一年前に帰国して以降は日本へと拠点とし、最近ではコンクールに出品すれば何かしらの賞を獲るという才能溢れる若き俊英。


 その若き俊英は厭世家でもある。

 いや、厭世家は少し違うか。

 世間や人と関わることを、「面倒臭い」の一言で切り捨てるものぐさだ。


 半年前から始めた副業、バーの店員としてはしっかりやっているようだが、それだけ。

 客はあくまで客。勤める店の人とも一定以上踏み込まず、友達はおらず、一夜限りの夜の相手はいても、恋人は作らない。


 そもそも海外の画壇で評価を得、海外の画廊と契約を結び、海外に顧客が居るのにも関わらず、無名である日本に拠点を移したのも、決して創作における都合などではない。

 ルイ本人の対人態度によるものである。


 だが、そんな我儘が許される程、いや、そこを押してでも気に掛ける価値があると、ルイ・ヒメミヤの絵を、その才能を評価する人達がいるのだ。




「そこの袋にワックスと朝ごはん入ってる」


 アクセルを踏み、助手席に座ったルイの傍ら、あらかじめ置いていた袋を指し示す。

 中身はヘアワックスと、野菜ジュースとコンビニのパン。レタスサンドとクリームパンである。


「ありがと」


 ルイは野菜ジュースのストローを咥え、まずクリームパンの袋を開けた。


 一緒に暮らしている時は、家族揃って食事していたので気にしたことはなかったが、ルイは基本、食べることに興味がない。

 まず三食きっちり食べようという気は無いし、お腹が空けばカロリー摂取と云わんばかりに菓子パンを食べる。

 むしろ放っておいたら菓子パンしか食べない。出されたものは特に好き嫌いもせず、文句も言わず平らげるが、自発的に食事を楽しむことはおろか、栄養を摂取しようとかいう気すらもないらしい。

 あくまで活動に必要なエネルギー補給をするだけだ。


 菓子パンである理由も、まあ甘い物は結構好きだという理由もあるにはあるだろうが、そのまま食べられる、手が汚れない、カロリーが高い、コンビニで買える、常温で数日保つ、などの利便性を買ってのことだろう。


 ルイが帰国してからしばらく、一週間程放っておいたことがあった。


 当時まだ店員のバイトもしていなかったルイは、一週間ただ家に籠って菓子パンだけを食べて絵を描いていた。

 菓子パンと水道水しか口にせず、「普通の生活」と呼ばれる全てを置き去りにして。


 基本的にそんな調子なので、放っておいたら多分栄養失調とかで簡単に倒れるんだろう。

 少なくとも今のそのご立派な体格は維持できないと思う。

 今ルイの身体は、バイト先の賄いと、週に一度提供される姫宮家からの支援物資という名の総菜によって維持されている。


「そういえばあれ、美味しかった。甘辛い蓮根のやつ」


「蓮根のきんぴらね。わかった、次多めに用意する」


「あとちくわに青海苔ついてる揚げたやつ食べたい」


「チーズ入ってるやつ? 入ってないやつ?」


「クリームチーズが入ってるやつ」


 こうして冷蔵庫と冷凍庫に詰めた総菜はきちんと消費し、味の感想は伝えてくるし、なんならリクエストまでしてくる。

 それでもやはり、自ら食事をどうにかする気はどうしても湧かないらしい。


 母にとってはもちろん、義理とはいえ可愛い息子だし、私にとっても弟だ。多少甘やかしているという自覚はある。

 どうにかしてやってくれと、家族である私たちにそう託されているという事実も手伝って、成人なのにこうして朝食を準備したり、世話を焼いてしまうのだ。


 まあ仕方がない。

 これが食事以外の面では少しも頼ってくることのないルイの、精一杯の甘えであることも分かっている。


 一年前、海外から戻って来た際のルイは、本当にばったり倒れるんじゃないかと心配になるぐらいガリガリに痩せていた。

 恐らく、本人が望んだとはいえ、画廊やパトロンの人たちがあっさりに日本に帰してくれたのも、その辺りの生活力の無さ、我が身を顧みない無気力さが一因になっているのだろう。


 クリームパンを三口で食べ終え、サンドイッチも飲んでるのか、ってぐらいの速度で消えていく。

 ああ、せっかくだからやっぱりコンビニで済ませないでおにぎりぐらい握ってくればよかったかな。

 そんなことを考えている間に、展覧会の会場となるギャラリーに到着した。


 今回ルイも出品した展覧会は、今日本で注目されつつある若手の作品を集めたものである。いや、日本でこれから売り出していきたいと関係者が考えている若手の作品、と言った方が正しいだろう。


 現在日本ではほぼ無名の『ルイ・ヒメミヤ』は、絶賛売り出し中だ。

 営業活動を兼ねて、スポンサーや関係者に挨拶をして回るのも、画家として仕事のうちである。


 エンジンを切ったところで、ルイがネクタイを渡してきた。


「やって」


「なんで」


 言いながらも、押し付けられたそれを断り切れず、仕方なく、渋々、ルイの首元に手を延ばした。

 石鹸の香りに加え、髪を撫でつけるのに使ったワックスの香りがする。

 普段は、あっちこっちに跳ねているのか、狙ってセットしているのか、絶妙な癖っ毛でふわふわな髪を、今はきっちりと撫でつけて額を露にしている。


 そうしていると、少しだけ実年齢より大人びて見える。まるで男の人のようで、ほんの少し、居心地が悪い。

 ネクタイを結ぶ私の手元に、じっとりとした視線を落とすルイの瞳。ネクタイを結び終わったタイミングで、その瞳と視線がぶつかった。


「ヨルちゃん」


「何」


「夕飯、一緒に食べよ?」


 いいでしょ? と甘えるように微笑むのは、かわいい弟だろうか。それとも、ただの男だろうか。

 夕飯と書いてディナーと読む、そんな雰囲気にたじろぐ。


「……じゃあ久しぶりにすき焼きしよっか。母さんと三人で」


 笑顔で返せば、ルイは明らかに落胆の色を一瞬だけ見せて、即、いつも通りの笑顔を浮かべた。『姫宮さんちのルイくん』の顔だ。


「いいね。じゃあぼくがお肉買うよ。帰りに買お?」


「おっけ。じゃあ母さんに連絡しとく」


 その落胆には気付かなかった振りをして、私も笑う。

 そして私のその気付かない振りに、ルイも気付かない振りをして笑った。

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