2、かつては天使

 嫌になるぐらい、どこかの王子様のようだ。

 この世の全ての汚いもの、そんなものはまったく知らないような顔を見せてくる。

 爛れきったゆるゆる下半身クソ野郎のくせに。


「ん、ヨルちゃん」


 ふんわりと幸せそうに微笑んで、その瞼が再びすうっと閉じる。


「ルイ! 起きろ!」


 がばっとタオルケットをめくると、逞しい裸身が露になった。

 寒い、と云わんばかりに縮こまる身体はパンツすら履いていなかった。 


「ちょっと!!!! 服ぐらい着ててよ!」


「んー」


 驚いて、タオルケットを裸身の上に即座に戻す。なんで裸なのかとか、考えてはいけない。無心だ。無心。


 そんな私の内心の諸々を余所に、ルイは呻きながらものそりと上半身を起こした。

 欠伸をして、目を擦る姿は寝惚けた子どものようだが、こんなにガタイの良い子どもなんていない。

 たまに遭遇する明らかにそういった行為に及んだであろう女性が、一度として同じ人だったことはない。そんな子どもいてたまるか。


「おはよ」


「はい! おはよう!」


 何かを誤魔化すように張り上げた声に、ルイが「ふふ」と楽しそうに笑う。笑って、立ち上がるその姿は勿論一糸纏わぬ裸身である。

 私は落ちている服をまとめる振りをして、即身体を反転させた。急ぎその芸術的な身体から視線を反らす。


「別に見てもいいのに」


「セクハラ」


 いや、実際に散らかり放題の服を片すんです。

 良い身体してるとは思うけど、あくまで骨格や筋肉の構造的な意味合いです。

 そもそも私は男の裸なんて見慣れてるし。ダビデもペルセウスも一糸纏わぬ裸体だ。大理石だけど。

 っていうか、自分の身体に彼等と同等の価値があるとでも思っているんだろうか。さすがにおこがましくありませんか。


「って、急いでルイ! あと十分で支度して! すぐ出るよ!」


「じゃあ五分で済ます」


 脱衣所から顔だけを覗かせたルイが、そう言って、すぐにシャワーの音が聴こえ出した。


 溜息を吐いて、服の山に埋もれていたスーツを引っ張り出す。

 先週クリーニングから引き取って来たのは私だ。そして椅子の背凭れにかけて「後でちゃんと仕舞って」と言い残して去った。

 一週間後の今日も、まだそのまま置いてある。そしてその上に別の一週間分のズボンとシャツが積み上がっている。


 まあ、ルイがが私の言った通り片付けるなんて、期待してたわけじゃないけど。

 ただルイの私室、そのワードローブにまで手を突っ込むのは、なんとなく抵抗がある。

 私なりの線引きだけど、このままではスーツの保管一つままならない。


 けど、でも、と言い訳じみた言葉を脳内で並べつつ、一応スーツを検める。

 埃避けのビニールがかかったままだったそこそこ上等なスーツには、特に目立つ皺は見られない。まあ大丈夫だろう。


 スーツを腕にかけて、リビングから続くサンルームの扉を開けた。

 昔は植物を育てる温室として使われていたらしいが、今は画家として活動するルイのアトリエである。


 窓は開いているものの、油彩独特の匂いが充満している。

 ガラス張りのサンルームには光が差し込み、白いカーテンが揺れている。

 リビングとは違い、散乱している物はない。窓と、カーテン、絵具が入った元クッキー缶と、筆やオイル、必要な画材が乗った小さな机と、椅子。そして、イーゼルに立てたカンヴァスが一つ。

 この静かな空間で、ルイは絵を描くのだ。


 カンヴァスの絵は、描きかけだ。F100サイズ、次の展覧会か、それともコンクール用だろうか。或いはどこかの誰かの手に渡る商品か。


 バイオレットからロイヤルブルーを経て、ミッドナイトブルーへと変化する綺麗なグラデーションで塗られている。


 ルイ・ヒメミヤは、夜だけを描く。


「上がったよ」


 頭上から、ぽたりと垂れてきた雫と共に、ルイの声が降って来た。

 頭上越しに見上げれば、ロイヤルミルクティー色の髪が濡れて、雫が滴っている。香るのは、嗅ぎなれた固形石鹸の香り。


 私の手からスーツを取り上げそれらを素早く身に着けたルイは、『ルイ・ヒメミヤ』の顔をしてにこりと笑った。


「じゃあ、行こうか」




 共に地元の美大を卒業して約二年が経った。

 学生時代からのアルバイト先でそのまま雇い入れて貰った私は、ごくごく稀に売れる絵を描きながら、実家で母と二人暮らしをしている。

 私の絵は副収入と言える程の稼ぎにすらないならい、本当に趣味程度のものだ。

 なので、職業は画材屋の社員。在庫を管理したり、接客もする。

 後は、絵描きとは別のちょっとしたアルバイトが、まあ副業と言えるだろう。


 一方ルイは、美大の卒業が確定していたある日突然『卒業旅行』などと称し、海外へと一人旅立っていった。

 そしてその時が、母と三人で暮らしていた我が家からの巣立ちでもあった。


 そのまま約一年、ルイは根無し草のようにふらふらと海外を放浪した。

 生存報告代わりに月に約一回の頻度で、そっけないポストカードが届けられた。「元気です」と、たった一言書き添えられた風景写真だけが、ルイの生存を裏付ける証拠だった。何せ当時のルイは、携帯電話すら持っていなかったから。


 後から聞いたところによれば、ルイは気が向くままにいくつかの国を回り、たまにストリートで絵を売って旅の資金を稼いでいたらしい。

 それなりに野宿などもしたらしいが、一年間も放浪できるほど絵が売れるというのは尋常ではない。

 国によっては絵を買う、という文化が日本より根付いていることはもちろんあるだろう。

 それでも、ルイの類い稀なる才能を以ってした結果だと言える。


 さらにはその最中で、後のパトロンともなる資産家に見出され、画商に紹介され、才能を買われた結果、画廊と契約を結び、海外に幾人かの顧客を持つに至った。

 画家を志す人間が妬みと嫉みでおかしくなりそうな経歴である。

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