カンヴァスの神さまと夜の女神

ヨシコ

カンヴァスの神さま:side夜子

1、姫宮瑠衣

 この美しい夜を、何と表現するべきだろうか。


 いくら考えようとも思い浮かぶ言葉は陳腐なものばかりで、この奇跡の様な空を言い表すのには到底役に立ちそうもない。


 カンヴァスに描かれた、鮮烈で残酷な夜。

 聖母の様に穏やかで、娼婦のように艶やかに、絵の中の夜は全てを呑み込んで、ただ美しくそこにある。

 絶望、希望、憎悪、そして狂おしいばかりの愛。

 その全てを内包するこの美しい情景を、どうすれば表現できるのだろうか。何を考えて、絵筆を走らせるのだろうか。


 そんなことを考えている時点で、私の限界が、才能の欠落が証明されているのだろう。

 思考の末に描けるような、これはそんなものではない。


 狂気のような衝動で走らせる絵筆からしか、生まれないものがあるのだ。

 そう、この絵が指し示し、証明している。


 私は、天才ではない。




◇◇◇




 田舎の小さな一軒家。亡くなったご両親から引き継いだその家で、ルイは一人暮らしをしている。


 周辺は緑に溢れ、徒歩十分以内にあるのは崩れそうな廃墟だけ。

 最寄りのコンビニまでは車で十五分。私が母と二人で暮らしている姫宮家からは、車で五分程の距離。


 ルイ、姫宮ヒメミヤ瑠衣ルイは、私、姫宮ヒメミヤ夜子ヨルコの同年の義弟である。

 血縁上は限りなく他人に近い遠縁。戸籍の上では紛れもなく弟。


 ルイの実の両親は、まだルイが幼い頃に揃って事故で亡くなっている。

 その後紆余曲折を経て、まだピカピカのランドセルを背負っていた頃、私と母が二人で暮らす姫宮家へと引き取られた。


 歳は二十五。職業は画家、時々バーの店員。

 ペンネームは現在の本名まま『ルイ・ヒメミヤ』。


 勝手知ったる弟の家の前で車を止めた私は、家の脇にルイの愛車が止まっているのを確認し、とりあえず安堵した。どうやら在宅ではあるらしい。

 現在午前八時四十五分。此処に来るまでに幾度か鳴らした電話には出なかったが、ルイが車無しで出かけることはたぶん無いし、朝早くから出かけることもほぼない。

 恐らくまだ寝ているのだろう。


 合鍵を差し込み玄関のドアを開けると、玄関タイルの上には乱雑に靴が散らばっていた。


 身を屈めてそれらを揃えるのは、弟にのみ発揮されるお節介焼きという悲しい性によるものだ。まるで『お母さん』のようだと、自分の中の卑屈な自分が笑う。


 伸ばしているというより、伸びているだけの何もしていない黒い髪が視界で揺れた。

 まとめてくればよかった、という思いと共に、倒れている真っ赤なピンヒールを立てた。


 ルイのスニーカー、革靴、サンダル、何れもシンプルで上品なデザインの造りの良い上等なものだ。

 それらに交じった真っ赤なピンヒールはて明らかな女性物である。


 学生時代から履いている黒のローファーに、伸ばしているだけの長い黒髪、量販店で買ったパンツに、これまた量販店で買った無地のシャツ。

 そのシャツが空色をしていることが精一杯のお洒落である私には、到底履きこなせないであろうエナメルの真っ赤なピンヒールがその存在を主張している。


 エナメルに触れた私の指には、オレンジの絵具がこびり付いていた。


「瑠衣ならまだ寝てる」


 そのピンヒールに視線を落としていた私は、声を掛けられて顔を上げた。


 廊下の奥、リビングから現れたのは、真っ赤なピンヒールが似合いそうな見ず知らずの美女だ。

 その動きに合わせて黒い、艶やかで真っすぐな髪がシャンプーのCMみたいに揺れた。


 身体の線に沿うぴったりとした黒いパンツに、透け感のある黒いシャツ。

 黒髪ロングにパンツとシャツ、要素は同じでも、私とは激しく隔たりのあるゴージャスな女性が、ピンヒールにその足を突っ込んだ。

 実に、良くお似合いで。


「……どうも」


 微妙に気まずい思いを抱いて、道を譲るように玄関の壁に張り付く。


 そんな私を、綺麗に化粧した顔が至近距離で覗き込んだ。

 女性から漂う石鹼の香りは、姫宮家が昔から愛用している固形石鹸の香りだ。


「ヨルちゃん?」


「はあ……」


 確かに、私が『ヨルちゃん』です。ルイめ、今度は何をした。一体何を吹き込んだ。


「似てなくない?」


「ええと、何が、でしょう?」


「私と、あなた」


 女性が、真っ赤なネイルをした綺麗な指先で、自分と私とを指さした。


「はい?」


「ほんと、最低。瑠衣に言っておいて、クソ野郎死ねって」


「え?」


「イメクラとか、ほんと失礼しちゃう」


 女性はそんな呟きを残して、口ぶりほどは怒っていない様子で、長く真っすぐな黒髪をなびかせて颯爽と出て行った。


 ああ、と納得してしまうところが最低だと、自分でも思う。

 ほんと、クソ野郎です。


 閉まった扉に向かって溜息を吐き出して、とりあえずバッグから髪ゴムを取り出した。下ろしていた髪を手櫛でまとめて一つに縛る。


「ルイー?」


 声を掛けながらリビングに入ると、壁に沿うように配置したソファベッド、その万年ベッドの上で、もぞりとタオルケットの塊が動いた。


 部屋は床の上の至る所に脱ぎ散らかした服、開きっぱなしの本がある。


 本来の使用目的をあまり果たしていない食卓テーブルにも本が何冊か。

 四脚ある椅子の背凭れには服の山。

 一応洗濯はしたようだが、乾かして取り込むことはしても、片付けるには至らなかったらしい。

 ゴミこそないものの、散らかってはいる。まあいつも通り。生活感があるような無いような、絶妙なバランスの部屋だ。


 他にも部屋はあるというのに、ルイはほぼこのリビングだけを生活の拠点としている。まるでワンルームマンションの様だが、もちろん寝室に該当する部屋はあるし、なんならまったく使用していない部屋が他にも二部屋ほどある。


「ルイ、起きて!」


「ん……」


 肌触りのよい厚手のタオルケットの上から揺すると、ずり落ちたタオルケットの端からミルクティー色のふわふわ頭が出てきた。

 長いまつ毛に縁取られた緑がかった瞳。幼い頃、天使だと持て囃された顔は、二十代半ばに差し掛かった今でもその片鱗を残している。


 半分英国人の血を引くルイの、彫りの深い整った顔が、私を見て夢見るように微笑んだ。

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