舟中の指、掬すべし。

水銀コバルトカドミウム

完結

蜀(漢)の名将関羽が、暗唱出来たとされる春秋左氏伝。

その一節に私の心を捕らえて放さないものがある。


舟中の指、掬すべし。

という名節だ。


紀元前597年まだ春秋の時代、ヒツの戦いにて楚は晋を破る。

晋軍は敗走するも、退却の際に黄河を渡る輸送船が不足していた。

当然、舟は兵卒で満たされるが、彼らは転覆を恐れて、まだ乗れていない舟のヘリに縋り付く者達の指を次々と切断した。

舟中の指は、金魚すくいのように掬えるほどあると言う事だ。


簡素だが冷静で物質的で残酷でなんという名文だろう。

この補足駄文が、全てを台無しにしていないか心配ではある。


コンプレックスだらけの自分に、自己肯定出来る部分が唯一あるとしたら、歯の良さだろう。

歯医者に行けば、歯を褒められる。

私を唯一赦し認めてくれる場所が、歯医者なのだ。

これの誇示であるのか、それとも単に味の問題だろうか是が非か、私は林檎を丸かじりするのが好きだ。


話は変わるが、ベランダは舟に似ている。

私はこの簡素な空中の舟を晋軍のそれに見立て、「舟中の林檎の芯、掬すべし」を達成すべく林檎生活を心がけた。


林檎を食べる事に元より苦は無い。

しかし、指に見立てたそれは雨風を受け、過ぎて行く秋を受け、風化し原型を失っていく。

不変の物など無いのだと、改めて気付かされて、「舟中の芯は掬うほどは無い」となった。

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舟中の指、掬すべし。 水銀コバルトカドミウム @HgCoCd1971

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