3.知らない人としゃべるの苦手



 キーコは怯える狐に横から抱き付き、負けじと声を張り上げた。

「なんなんですか、あなたたちっ!」

「ひぇっ!?」

 その声に驚いたのか、“少女”がびくりと震え上がり、慌てて“黒豹”の後ろに身を隠す。目を丸くするキーコ。つい数秒前に狐を叱りつけた高圧的な態度とはまるで別人である。

「えと……その……ワシ……いや私、は……」

 “黒豹”がカラカラ大笑いして、

「テル姫はねえ!! おはなし、にがて!! ですから?!」

「やっかましいわ! 自己紹介くらいできるわいっ!!

 ワシはなあ! あう……あ、天野あまの……てらす……です。仲間内では、テル姫とか……呼ばれて……あとその、こっちは相棒の……」

「ハナちゃんはねえ!! ハナちゃんいいます?! からねえ?!」

「声でかっ」

「あなたアメ食べるといい!! アメ食べるのは元気なります。しょうみのはなし」

「アメは後にせいっ!

 とにかくじゃ、えーと……まずじゃな、そこな狐は稲荷いなりという神でえ……娘よ、なんじはこのままだと、マジで死ぬことに……」

「テル姫??」

「なんじゃい」

「もう行きました?! けどねえ?!」

「えっ!?」

 “少女”テル姫が顔を上げる。キーコも白狐もそこにはいない。とうの昔に逃げだしてしまっていたのである。

「あーっ!? いつの間に!?」

「テル姫、ずっと地面みてました!! からねえ?!」

「しょうがないじゃろっ! ワシゃ知らない人としゃべるの苦手じゃもん……

 ええいっ! そんなことより追うぞ追うぞ! ……わろうてないで走らぬか、おい、ハナちゃんっ」



   *



 なんだあいつら。何しに来たんだ。白狐を胸にかきいだき、キーコは路地を疾走した。四つ角を折れ、細道を抜け、室外機の上を飛び越えて、がむしゃらひたすら駆け回る。夢の街のアスファルトは見た目よりはるかに柔らかだったがそれでも素足で走れば痛い。慣れない運動をしたせいか、四肢も鉛のように重い。肺など今にも破裂しそうだ。だが止まれない。止まるわけにはいかない。かわいそうに、狐はすっかりすくみ上がって、巨大化していた身体も元のサイズに戻ってしまっている。抱かれるままキーコの乳房に顔を埋め、ずっと小刻みに震えている。

 退治たいじる、と、あの“少女”は言った。

 でなければキーコは死ぬことになる、と。

 ……知ったことか。

「大丈夫だよ、狐様」

 息せき切って駆けながら、キーコは狐をいっそう強く抱き寄せる。

「殺させない! 一緒に逃げよう!」

 行く手を塞ぐ虹色の泡を頭突きで押しのけ、キーコは再び大通りに飛び出し……

 そこで顔面引きつらせて硬直した。

 目の前に、がいる!

 半透明の異形、トカゲ人。昨夜狐と格闘していたあの化物が、いきなりキーコの行く手を塞いだのである。

「ぁっ……?」

 声が出ない。人間が唐突な恐怖に襲われたとき、誘起される反応には3つの種類があるという。ひとつは交感神経による闘争や逃走の衝動。ふたつめは有髄性迷走神経による対話の欲求。そして最後が、無髄性迷走神経による硬直や失神である。

 キーコを支配したのは、まさにこの第3の反応だった。身体が動かない。目の前にいるのが化け物だとは分かっている。逃げなきゃいけないと意識が言っている。だが身体が従ってくれない。半透明の化け物、トカゲ人がゆっくりと拳を振り上げる。殴る気だ。涙が出る。膝が震える。。幼い頃、父親にハンマーのような拳で張り倒された、あの夜の血の鉄臭さが口の中に蘇る――

 と、

 ぴゃ!

 白狐が跳ねた。キーコの腕からするりと抜け出し、矢のように飛んで化け物の喉にみついた。半透明の喉笛を喰いちぎり、薄灰色の血飛沫を総身に浴びて、狐は敵を蹴り倒す。背中から重低音とともに倒れる化け物。その胸の上に狐は華麗に舞い降りて、キーコに鋭く視線を送り――

 ぴィ!

 再び刺すような鳴き声。その一声でキーコの金縛りが解けた。後ろだ、と狐が叫んでいる。弾かれたように振り返れば、いつの間に近寄ってきたのか、ほんの2m先にトカゲ人がもう一体!

(死ぬっ……)

 かつては死ねることを喜んでいたはずのキーコが、今、閃光のように確信した。

(死ぬのは嫌だ!!)

 その瞬間。

「だラァ!!」

 ごッ!!

 耳障りな粉砕音とともに怪物の脳天が破裂した。怪物に胸までめり込んでいるのは鈍く輝く金属バット。それを握るのは、陽光を浴びてしなやかに立ち上がる“黒豹”ハナ。恐るべき脚力ではるか遠方から瞬時に駆け寄った彼女が、キーコの頭上を飛び越えるやいなや痛烈な一撃を叩き込んだのである。

 ハナは目元に散った返り血を拳でぬぐい、血まみれの頬で人懐っこく微笑んで見せ、

「動きませんでくださいねえ?!」

「えっ」

 瞬転! ハナが走る。バットが唸る。血がほとばしり渦を巻く。キーコの隣を駆け抜けざまに空を走った金棒が、左右に出現した新たな敵を有無を言わさず薙ぎ倒す。あまりの早業。キーコの目には何が起きたかすら分からない。

 だがまだ戦いは終わっていない。彼方あなたの窓から、此方こなたの壁から、半透明のトカゲ人どもが染み出すように現れ出、数十とも数百ともつかない数でキーコたちを取り囲む。恐怖に喉をひきつらせるキーコ。その前に立って油断なく金属バットを構えるハナ。

 その時、狐に異変が起きた。

 白銀の毛が針のように逆立ったかと思うと、全身の筋肉が波打ちながら膨張していく。巨大化だ。だがいつものサイズではない。キーコを乗せて走ってくれた時のさらに数倍、アフリカゾウすら軽くし潰せそうなほどの体躯に膨れ上がり、咆哮とともにトカゲ人の群れへ飛び掛かっていく。

 右へ、左へ、巨体に似合わぬ素早さで電撃のごとく駆け回り、当たるを幸い片っ端から敵を蹴散らす狐。だがその目を見てキーコは震えあがった。あの火傷するような飢餓の炎。昨夜と同じだ。狐は我を忘れている。

 狐がキーコに目をとめた。

 牙を剥き、粘る唾液をしたたらせ、狐がキーコに襲い来る。

 と、


《もし彼に罪咎つみとがなくんば

 この矢彼に なあたりそ

 もしきたなき心あらば

 国つ荒霊あらたまこの矢にまがれ》


「やーっ!!」

 凄まじい勢いで横手から飛び込んだ矢が、狐の頭に突き刺さる。甲高く悲鳴を上げ、横倒しに倒れて倒れ伏す狐。下敷きになって潰れたトカゲ人たちの体液が間欠泉のように噴き上がってあたりを濡らす。悲鳴を上げるキーコ、それを抱いて背中でかばうハナ。そこへ朱塗りの弓をたずさえた“少女”テル姫が、何かブツブツ言いながら寄ってくる。

「……ワシはすごいワシは偉いワシは世界で一番カワイイ会話くらいは全然いけるぞ怖くない怖くない全然大丈夫いけるいけます喋れます! よし!! そこな娘、ワシについて来い、逃げるぞよ!

 ほら喋れたであろう! 偉いじゃろ、ほめよ!」

「えらい!!」

「撫でてもよいぞ。さあ来るのじゃ娘っ」

「でも狐様が!」

 その声に呼応するように狐が震えながら起き上がる。頭の矢傷からどす黒い血が滝のように流れ出て、美しい毛並みを染めていく。狐は狂気にのまれた真紅の眼でテル姫を見、キーコを見、低く唸り、不意に跳躍してビルを飛び越え、街のどこかへ逃げて行った。

「狐様! 待って、手当てしなきゃ死んじゃう!」

「あやつは神じゃ、死んだ程度で死にはせぬ。それより事情を知りたいじゃろう? この世界、あの化物、そしてなぜ狐がなんじを襲うのか。

 ハーナちゃん、後詰めは任すぞよ」

「わァハァ!!」

 歓声とも雄叫おたけびともつかない奇声を発しながら、新たに出現したトカゲ人の群れへ飛びかかっていくハナ。キーコはためらい……しかし他にどうしようもないことを悟り、テル姫の後を追いかけていった。狐が逃げ去った方角を、幾度も恋々れんれんと振り向きながら。



   *



注連縄しめなわを張った。ひとまず当面は安全じゃ」

 街から離れた林の中、テル姫は木々の隙間から西の空を睨んで呟いた。キーコは我が身、我が膝にすがるように両手で抱きかかり、焚き火の前にじっと座り込んでいる。震えが止まらない。突然の怪異。何年ぶりかで味わった死の恐怖。実家にいた頃たびたび襲われたあのおぞましい感覚が、冬眠から覚めた虫どものい出すように胸の奥から湧き上がり、キーコの五体を完全に蹂躙してしまう。

「何……なんですか、これは……」

 キーコの隣であぐらをかいていたハナが、キーコの肩に熱い手のひらを乗せた。

「キーコさん!! アメをねえ!! 食べるといい」

 耳元での大音声。びっくりして顔を上げると、肌が擦れ合うほどの位置にハナの肉体美と笑顔がある。

「アメを食べることは元気になります!! からねえ?!」

 ハナが優しく手を握り、手のひらの中に個包装のアメを押し込んでくれる。日本語が片言であるところを見ると、彼女は外国人なのだろうか。正直に言って何を言っているのか分からないが、何を言いたいのかはなんとなく分かる。苦手な言語で懸命に励まそうとしてくれている。悪夢のようなこの状況で、こんな小さな思いやりがじんと胸に染みてくる。キーコは目尻の涙を拳でぬぐい、どうにか微笑みを返した。

「ありがとう」

 もらったアメを口に運び……

「あっ!? それミソ味じゃぞ!」

 うっぶう!?

 時すでに遅し。口に広がる予想外の塩気。濃厚な甘みと味噌の香りの絶妙なミスマッチに思わず口の中の物を吐き出しかける。しかしニコニコ嬉しそうにこっちを見つめるハナの厚意を思えば、このまま食べきってしまうしかない。

「あの、あは……元気でました。ありがとう」

「よかったですからねえ!! あのやつは、悪虫わるむしいいます。こわいよ」

悪虫わるむし?」

「先刻そなたを襲った化け物どもじゃ。記紀ききでは黄泉醜女ヨモツシコメとも言うな」

 どっこらしょ、などと年寄り臭い声を漏らしながら、テル姫が焚き火の向こう側に腰を下ろした。

「仏教における魔羅マーラの娘。冥府でオデュッセウスを襲った亡者の群れ。名前や伝承は色々あるがみな根は同じ。ワシらはアレを悪虫わるむしと呼んでおる。

 奴らは、この世のつらさに苦しみあえぎ死に腐った者の成れの果てじゃ。自身苦しんでいる奴は、健康的な者を見て腹を立て、自分と同じ泥沼に引きずり込もうとするものよ。そうして取り込まれた犠牲者が、また新たな悪虫わるむしとなる。

 今の狙いは歳星としぼし癸亥子キーコ、そなたじゃな」

「じゃあ、その、悪虫わるむし? から私を守ってくれた? あなた達も、狐様も……」

「動機はちと違うがな。

 あの狐めがそなたを守っておったのは間違いない。街にいくつもトカゲの玩具の残骸が転がっておった。あれが一等いっとう小物の悪虫わるむしじゃ。

 しかし奴はそなたをタダで守っていたわけではない。対価はきちんと取っておる。

 そなた、身体に違和感はないか? たとえば、異常に疲れやすかったりとか」

 キーコは思わず上着の前をかき寄せ身体を隠した。それで全て察したテル姫が立ち上がり、そばに迫ってくる。キーコは身を引き、逃げ出そうとする。その肩を抱き止めたのは、誠意の光を目にたたえたハナ。

「おいしゃさん、してもらうといい。ですから」

 戸惑った一瞬の隙に、テル姫はさっと手を伸ばし、キーコの上着の端を握ってしまった。

「そなた、やしろに食べ物を供えたであろう。

 神へ捧げる食物を神饌しんせん、ないし御饌みけという。稲、米、飯、粥、白酒黒酒濁り酒。餅や雑穀、魚介に野菜。味噌醤油などのしょっぱい物からや饅頭みたいな甘い物まで、およそどんな食い物でも御饌みけになるが、その本質は思いやりじゃ。

 敬意をもって神を迎え、尊崇をもって食をふるまう。神は食い物それ自体でなく、捧げた人の心を食う。食った心の返報として人に加護と利益りやくをもたらす。そうして過去数千年、人と神とは共栄してきた。

 じゃがな。本来幾千幾万の民から少しずつ食らうはずの心を、ただひとりの信徒からむさぼれば何が起こるか?

 その答えが……これじゃ」

 テル姫がキーコの上着をめくりあげる。そこには人の頭ほどもありそうな豊かな乳房が――

 

 胸だけではない。右肩、喉、そして右の乳房の下あたりまでが、まるごと球形にえぐり取られている。その傷口は異様の一語。血の一滴も流れ出ず、むき出しの筋繊維はつやつやしく波打ち、切断された心臓の何事もなく脈動するさまさえはっきりと目で見て取れる。痛くはない。違和感さえない。そこに肉体があったことがむしろ何かの間違いだったかのように、キーコの一部が完全に失われていたのである。

「……やはり喰われたな」

 テル姫は溜息まじりに吐き捨てる。

神饌しんせんは今やそなた自身。

 早い話が……生贄いけにえじゃ」



(つづく)

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