2.ここは天国? それとも……地獄?
夢見心地とはこれを言うのだ。世界が違って見えるのは、日々の激務でくたびれた心が回復したおかげか、本当に世界が変わったからか。空気はさわやかに肺に染み入り、街は優しげな色彩でキーコを包み、無味乾燥なアスファルトさえ今はきらきら輝いて見える。
夢の街の夢のような美しさの中を、キーコは白狐とそぞろ歩いた。
何という風景だろう。見るもの見るもの目新しくて、みな感動に満ちている。さっきは不気味に思えた看板も、よく見ればみんな筆の手書きで、文字が苦手な子供が見様見真似で懸命に書いたような可愛らしさが
「ふしぎ……こんなの見たこともない」
キーコがメロンほどの大きさの泡を撫でながら振り返ると、白狐はまた一匹の木彫りのトカゲをやっつけて
「君がこの世界を作ったの?
狐さん……神様……狐様?」
ぴゃあ。
と狐は甲高く鳴き、キーコの足元に首を擦り寄せた。
狐の背を撫でてやりながら、キーコはその場にしゃがみ込む。
「……だんだん分かってきた。
私はあのとき、飛び降りて……
自殺するつもりで……
狐様がここに連れてきてくれた。
つまり私は、助かったの?
ここは天国?
それとも……地獄?」
ぴゃ。
返答のかわりに白狐は一声高く鳴き、地面をにらんで震えはじめた。なんだろう? と首をかしげたキーコは、すぐに驚きで目を見開いた。狐の身体が、変わる。毛並みに
数秒後、尻もちをついたキーコの前に現れたのは、大型のバイクよりもまだ大きいほどの体躯になった白狐。それがキーコの足先に低く身を伏せ、じっ、と緋色の視線をくれる。
――乗れ。
誘われた気がした。
おそる、おそる、キーコは立ち上がり、狐の首に手を伸ばす。硬い質感に見えた体毛は、触れてみれば案外柔らかくキーコの手のひらを飲み込んでいく。その下にはじわりと温かい肌。指先を跳ねのける野性の獣の筋肉のこわばり。
またがってみる。キーコの股が、狐の背骨の突起の隙間にあつらえたもののようにしっくり収まる。変な感じ。これまでにない経験。人よりも数度高い狐の体温が、太ももの皮膚ごしにキーコの中へ染み込んでくる。
こ―――――……ん……
天高く狐は声を響かせ、瞬間、空へ舞い上がった。
「えっ!? わ!? うわああ!?」
驚愕、動揺、キーコが叫んだのも無理はない。狐が空を飛んでいる。というより、空気を踏み締め、風をまとって、空を駆けている。キーコの股をきゅんと締め上げる高所の恐怖。みるみるうちに遠ざかっていく地面。虹色の泡も、パステルのビルも、みんな下へ置き去りにして、狐とキーコはふたり天空の覇者となる。
「あ……」
キーコは小さく声を漏らした。
気が付いたのだ、自分が今、かつて味わったことのない快感を覚えていることに。全身を包む浮遊感。冷たく頬を切る大気。そして股の下で熱く頼もしくキーコを受け止める狐の身体の力強さ。慣れてしまえば全てが気持ちいい。下腹部から始まって、胸が、頭が、指先までが、火のついたように熱く
自分自身の問いかけが、ふと、彼女の頭をよぎる。
――ここは天国? それとも……地獄?
「……どっちでもいいや」
キーコは狐の背に全身で抱き付き、雄々しい体躯を潰してしまいそうなほどにきつく抱きしめる。
「あんな現実なら戻りたくない。
ここで暮らそう? ふたりで……いっしょに」
*
時間が過ぎた。
数日か? あるいは数年? あるいはほんの数時間なのか? 時間感覚すら曖昧で、キーコはいつしか時を数えることをやめた。ずっと狐と一緒に過ごした。街をぶらつき、森でじゃれあい、そしてもちろん、体を重ねて天へ昇った。飛ぼう、と誘いをかけるのは初めのうち狐の方からだったが、やがて誘われることに慣れたキーコは自分から
不思議と腹は減らなかった。ずいぶん長い時間この夢の街で暮らしているはずなのに、キーコは水も食べ物も一度も口にしていない。そのほかの生理的欲求に悩まされることもない。唯一の例外は睡眠だった。夜が来れば自然と眠気が襲って来、巨大化した狐の腹に寄りかかって目を閉じれば、日の出とともに心地よく目覚める。こんな快眠には、生きていた頃にはほとんど縁がなかった。
満足だった。
このままずっと、この暮らしを続けていたかった。
だが一方でキーコは違和感に気付き始めてもいた。毎日これほど楽しく、気持ちよく過ごしているのに、身体の疲れはいっこうに取れない。どころかじわじわと体力が消耗していっているような気さえする。奇妙な喪失感がある。身体とか、力とか、そういうものではなく、もっと本質的な自分の中の何かが、少しずつ失われていっているような……
ある夜、キーコはこの世界へ来て初めて、寝苦しさに目を覚ました。
吐き気がする。
腹の奥から、不快な
脂汗を額に浮かべ、助けを求めて見回して、初めてキーコは気づいた。白狐がいない。周囲にあるのは今夜の寝床に選んだ森の木々のみ。いつもキーコのベッド代わりになって、朝まで彼女を見守っていてくれていた狐が、忽然と姿を消している。
キーコはうめきながら立ち上がり、数歩ふらついたところで我慢しきれなくなり、木の根元に胃液を吐いた。唇から糸を引く粘液を夢中で吐き飛ばし、木にすがってどうにか立ち上がる。大丈夫、こういことには慣れている。唐突な嘔吐なんていつものことだ。原因はどうせ精神的なものなので、落ち着きさえすれば多少は収まる。自分を安心させるため、手のひらを胸に当てて撫でてやり――
そこで気付く。
自分の身体に、おぞましい異変が起き始めていることに。
キーコの背筋を悪寒が走る。頬が引きつる。足がすくむ。いったんは引きかけた汗が、今度は全身から湧き出してくる。
「どこ? 狐様……どこ!?」
キーコはたまらず駆け出した。
月明かりだけの森の中を、あてもなくひた走る。と、物音がした。誰かが草の中で駆けまわっているような音だ。キーコは迷わずそっちへ向かった。草を掻き分け、木々を避け、夢中で走りたどりついた先に、白狐がいた。
そして白狐以外の何者かも。
“何者か”としか言えないのはそれが何なのか分からないからだ。見た目は身長2mあまりの人間のよう。だがあの三角に尖った鼻や丸く飛び出た眼球は紛れもなくトカゲのそれ。体毛も性器も見当たらず、マネキン人形めいた滑らかな皮膚には
があっ!
白狐はキーコには聞かせたことのない荒々しい咆哮を走らせ、化物の喉に喰らい付いた。巨大化した狐の剣ほどもある牙がトカゲ人の肉を喰いちぎる。トカゲ人が仰向けに倒れる。その胸を踏みつぶしながら狐が着地する。
「狐様」
キーコの呼びかけに、狐が振り返る。
狂暴の炎を目の中に
狐が今度はキーコに飛びかかる!
「きっ……」
名を呼ぶ暇さえない。押し倒され、抑え込まれ、なすすべもなく狐に組み伏せられ、キーコは突発的な恐怖に顔を引きつらせた。白狐のあの目。憎悪や敵意ではない、飢えと渇きを満々に
かに思われたその直前、狐の動きが、止まった。
狐は、戸惑っている。野獣の眼が、知恵の色に徐々に塗り替えられていく。自分を突き動かす獣の衝動と必死に格闘するかのように、狐は喘ぎ、幾度もうめき、やがて、キーコから身を離した。
数歩離れたところで狐は身を伏せた。キーコが起き上がる。狐は交差させた前足の間に鼻を突っ込み、ちら、と上目づかいにキーコの顔色をうかがっている。
――ごめん。
しゅんと縮こまった狐の五体が、はっきりそう言っている。
ああ、いつもの狐だ。正気に戻ったのだ。
キーコはほっと胸を撫でおろし、しかし腰が抜けて立つこともできないので、そのまま重い尻を引きずって狐に近寄った。
「ねえ、狐様。何があったの? どうしてあんな乱暴に……あのトカゲみたいなのは何? あっ! それに私、変なの。あのね、私の……おっぱいが、その……」
ぴゃあ!
キーコの言葉をさえぎり、狐が強く鳴いた。
――乗れ。
狐はそう言っている。キーコは目を丸くする。
「えっ? 乗るの? 今から?」
ぴゃ。
「いいけど……」
言われるままに狐にまたがる。狐が走る。空ではなく、今夜は地面を。わ! とキーコは声をあげた。空を駆けるのとは違う衝撃。狐が地を蹴るたびに、股の下から強烈な振動がキーコを突き上げる。たまらずキーコは前へ倒れ、両手両足で狐の大きな身体を抱きしめた。
「ぅ……ふぅっ……ん……」
えも言われぬ心地よさに思わず甘い吐息が漏れる。涙が出る。愛されている。求められてる。自分は大切にされている。その実感が肉感を通じて流れ込んでくる。そうだ、これでいいじゃないか。なんの問題がある? ここには仕事も会社もない。男も親も暴力もない。ひたすら可愛がってくれる狐と、どこか妖しくしかし優しい理想の世界がここにある。キーコは狐の背にすがりついたまま肉の快感に身を委ね、深く深く没入していく。これでいい。森を抜け、丘を越え、街を疾走する狐が、キーコをどこへ連れて行こうとしているのか……その行き先は分からなかったが。
*
一晩中、身を重ねたまま走り続け、ふたりは小高い丘の上に来た。
立ち止まった白狐が、降りろ、とキーコに視線でうながす。息があがってふわふわした脚でちゃんと立てるか不安なほどだったが、狐の背中に手をついてどうにか身体を支えることができた。
後ろを見れば、空に昇りかけた朝日。
前には暗く穏やかな、海。
美しい、美しい海だった。夜明け前、紫と茜が妖艶に混ざり合う西空の下で、かすかに波打ち横たわる黒。見つめていると吸い込まれそう。油断をすれば引き込まれそう。だが嫌な感じはしない。懐かしい場所。いつか来た場所。そして――キーコは直感した――これから行く場所。いや、たぶん、きっと、生まれてからずっと、自分はあの海に向かって進んできたんだと。
「あそこに連れて行ってくれるの?」
問えば、狐が視線だけで応える。
「きれいなところだね……あの海の先に、一体何があるのかな」
「
突然背後から聞こえた声に、キーコは飛び上がりながら振り向いた。
「西方浄土、
ふたりの女性が、いつのまにかそこに立っている。
ひとりは、刃のように鋭い目をした少女。つややかな黒髪が光を浴びて神々しく輝くさまは、頭の後ろから放射状に散らした独特の髪型もあいまって、まるで太陽を思わせる。背格好は子供らしいが、実年齢は分からない。腰に手を当てた立ち姿にも、有無を言わさぬ視線の迫力にも、漏らす吐息のなまめかしさにも、なぜか老練な淑女の気配がある。
もうひとり、圧倒されるほどの長身の女性。軽く180cmは超えているだろうか。鍛え抜かれて無駄なく引き締まった筋肉はさながら黒豹のそれ。いつか動画で見た女性ダンサーがちょうどあんな素晴らしいスタイルをしていた。どこもかしこも脂肪でぷよぷよしているキーコにとっては、コンプレックスを刺激されて
「誰っ」
キーコは声を震わせながら一歩退き、長身の女性が血のついた金属バットを握っていることに気づいてさらに下がった。その前に白狐が進み出て、キーコを
が、その狐を
「控えよ
狐がたじろぐ。“少女”は溜息を吐き捨て眉間を揉む。
「貴様を
さもなくば……そこな娘は死ぬことになるぞ!」
(つづく)
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