神様ひっこし株式会社

外清内ダク

1.よし、死のう!



 よし、死のう!

 と決心した途端、急に視界が明るく開けた。何年も胃腸にのしかかり続けた重圧が嘘のように消え去った。不思議だ。生きようと藻掻もがいている時よりも、死のうと決めた後のほうが生き生きしている。いっそ楽しくすらなってきた。もう終わる。楽になる。これでやっと死ねるんだ! 晴れやかな爽快感に満たされながら、歳星としぼしキーコは意気揚々とオフィスを抜け出した。エレベーターで15階へ。階段登って屋上へ。見ろ! 空までがこんなに青く、涙が出るほど澄み切って、キーコを歓迎してくれる!

「やっほー!」

 テンション上がって声はりあげて、キーコはヒールを脱ぎ捨てた。冷えたコンクリの屋上をストッキングの足ではね踊りつつ、向かう先は南東の角。

 そこに、こじんまりとした稲荷いなりやしろがある。

 やしろと言っても鳥居もない、犬小屋程度の小さな建物がポツンと置かれているだけのもの。なぜこんな街の真ん中、それもビルの上なんて場所に神社があるのか、その由来はキーコも知らない。ビルのオーナーが加護を求めて建立こんりゅうしたか、あるいは建設用地にあった稲荷を取り壊すのもはばかられて移設したのか……いずれにせよ、彼女が入社したときには既にやしろは忘れ去られ、5年、10年、あるいはそれ以上もの月日が経過していたようだった。長きに渡って手入れもないまま放置され、風雨に傷んだ屋根は朽ちかけ、中に収められた木彫りの狐には痛々しい割れ目まで走っている。まるでその傷口が狐の流す涙に見えて……ある時キーコは、油揚げを一枚そなえた。

 ほんの気まぐれだった。その日キーコは27連勤目で疲労の絶頂にあり、まともな判断力を喪失していたのだ。そんな時、人はまず自分の生活の世話ができなくなる。弁当のつもりで冷蔵庫の油揚げをそのまま持ってくるという奇行をやらかしたのも、そしてそれをおかしいと断じる感性すらくしていたのも、全てはキーコの心が死んでいたせいだ。

 だから、だろうか。それでも、だろうか。キーコは傷ついた稲荷を見て、いつの間にか、泣いていた。このままにしておいちゃいけない。反射的に体が動いた。狐の像にこびりついた砂埃を、シルクのハンカチが真っ黒になるのもかまわず拭ってやり、狐の前に油揚げを置いた。手を合わせた。これで自分は昼食抜きだが、どのみち胃腸が荒れ果てて食欲なんか少しもなかった。

 それ以来、たびたびキーコはここに来て、やしろを手入れし、お供え物をした。水や、米や、もちろん揚げを、見様見真似のやりかたで。不思議なことにキーコが供えた食べ物は、翌日にはいつもきれいに無くなっていた。たぶんカラスか何かが持っていったのだろう。だがキーコは直感的にこう解釈した。

(狐の神様が食べたんだ)

 幼稚といえば幼稚。だが真摯といえば真摯。

 キーコにとっては、ただこれだけが生きがいだった。

 会社では嫌なことしか起きない。ミスをなじられ、大声で怒鳴られ、時には物を投げつけられる。生まれつきの巨乳はいつも嘲弄ちょうろうの的。卑猥な言葉は毎日何度も。直接触られることはおろか、壁に追い詰め拘束されて揉みしだかれたことすら一度や二度ではない。なけなしの勇気を振り絞り、悔しさに涙をこぼして取締役室に乗り込み抗議をすれば、そんな程度で大騒ぎするなとかえって叱責される始末。休みもなく、仕事もきつく、そのうえ何のやりがいもなく、それでも働かなければ食べては行けず、こんな状態で働き続ければますます頭がおかしくなり、考えられないような凡ミスが急増していく悪循環。無限に続く苦痛の中で、ただ、物言わぬ狐の神に奉仕する時間だけが、良いことをしている、正しいことをしているという確信をキーコにくれた。おかげで生き延びられたのだ。

(神様、いままでありがとう)

 キーコは稲荷社の前にしゃがみ込み、鼻先で静かに手を合わせた。

「私、逝きますっ!」

 さあ、もう心残りは何もない。

 キーコは屋上隅の低い胸壁パラペットをよじ登った。壁の上に立ち、視線をそっと下に向ければ、目もくらむほどの遥か彼方にくすんだアスファルトの道路が見える。15階建てビルの屋上、高さはざっと45m。この高さなら生存例はほぼ皆無だと事前にネットで調査済み。

 心残りは何もない。

 心残りは何も、ない。

 固く目をつむり、意を決してキーコは――んだ。


 その瞬間。

 ッ!!

 耳をつんざく轟音とともに

(何!?)

 驚き見開くキーコの目に、異様な光景が飛び込んでくる。空。つい一秒前まで何事もなく穏やかな青に満ちていた空に、黒紫色の裂け目が走っている。言いようもない不安と恐怖。あれは何? 何が起きたの? 事態を理解するより早く、次なる怪異がキーコを襲う。

 彼女の背後、稲荷のやしろから突如噴出した濃紫の煙が、一個の獣と見紛みまがうほどの俊敏さでキーコに飛びかかり、その全身を丸呑みにしたのである。

「やっ……え!? わ……」

 キーコの悲鳴は煙にはばまれ、濁り、弱り、やがて……消えた。



   *



(うわっ、ベッドかた! 冷た!)

 目が覚めて最初に感じたのはそれだった。ん……んう……と鼻声でうなりながら、少しずつ意識を手繰り寄せていく。いつの間に寝てたのだろうか。スマホのアラームはまだ鳴ってない? 出勤にはまだ時間があるかな? 嫌だな。もう生きたくないな……

「んがっ!?」

 違う! と背筋に冷たいものが走り、キーコは慌てて飛び起きた。ここはゴミで溢れかえった臭くて狭くてシャワーの出が悪いアパートではない。道路。アスファルトの車道の真ん中だ。

 ようやくキーコは自分のしたこと――会社の屋上から飛び降りたことを思い出した。右手を見る。左手も。胸も、膝も、お尻や足の裏も。どこにも怪我がない。痛みも感じない。そんな馬鹿な! 45mの高さからアスファルトの地面に叩きつけられて全くの無傷!? いくらなんでもありえない。身体が頑丈とか運がいいとか、そんなことで説明のつく話ではない。

(っていうより……ここ、どこ?)

 キーコはあたりを見回し愕然とした。背後にある15階建ては見慣れた職場……ではない。似てこそいるが全く別のビルだ。彼女の会社だけではない、目につく限り全ての建物がどこかおかしい。ガラス窓かと思いきやただの銀色の板だったり、コンクリートかと思えばコンニャクのように波打っていたり。あちこちの看板に書かれた文字は「うや國戰」だの「飮ます罐」だの、旧字体だらけの上に全く意味が通っていない。おまけにどこまでもどこまでも果てしなくまっすぐ伸びる車道には、ただ一台の車も、ひとりの通行人も見当たらないのである。

 気味が悪い。元の街とどことなく似ているだけにかえって怖い。一体何が起きたのか……

 と、そのときキーコは、道の向こうの10mほど離れたところに、動く影があるのを見つけた。

 人間、ではない。もっと小さな、犬のようなもの……いや違う、狐。白い狐が歩道の隅に、ちょこんと行儀よく座っていたのだ。キーコは息を飲んだ。狐の頭部から片目を横切って走る涙のようなあの傷跡に、見覚えがある。

 狐が立った。まるでキーコを誘うように、細い脇道へ消えていく。

「あっ……待って」

 小走りに、狐が入っていった脇道に近づき、恐る恐るのぞいてみる。両側を建物に挟まれた薄暗闇の中に、輝くような白い狐が、キーコをじっと見つめて待っていた。再び狐が歩き出す。

 バカみたいに立ち尽くしていたキーコに、つ、と狐が振り返る。

 ――来ないのか?

 片目の鈍いきらめきが、そう問いかけている気がした。

 キーコは歩き出した。

 狐は測ったようにぴたり数歩先を行く。運動不足のキーコは息を切らしてついていく。それにしても長い道だ。こんな細い路地が一体何m続いているのだろう。たっぷり1時間近くも歩き続け、なんのために歩いているのかも分からなくなりかけたころ、ようやく前方に光が見えはじめた。

「あ」

 声を上げたキーコに一瞥いちべつをくれ、狐が急に走り出す。

「待って! あなたは……」

 狐を追って、路地の出口から外に駆け出し――

 キーコは言葉を失った。

 たどり着いた場所は小高い丘の上。見渡す先には見たこともない街の風景。優しいパステルカラーに染められたビル。街並みを左右から包み込む鮮やかな緑の森。淡く澄み渡る空のあちこちには虹色の泡がゆったりと浮遊し、街に色とりどりの影を投げかけている。口を開けて見惚みとれるキーコの頬に、柔らかな風が吹き寄せて、かすかな甘い果実の香りを運んできた。まるで幻想ファンタジーの中に迷い込んだかのよう。ぞっとするほど奇妙で、抱きしめたいほど美しい、現実とは異なる世界――“夢の街”。

「やっぱりそうだ。あなたは……神様」

 気がつけば、狐がキーコの足首に頬を擦り寄せていた。しゃがみ、腕を差し出してみれば、自分からキーコの胸に飛び込んでくる。固い体毛に覆われた頭や顎の下を指で掻いてやりながら、キーコは涙を一粒落とす。

 苦しみではなく、救いと嬉しさから湧いた涙を。

「狐の神様。あなたがここに連れてきてくれたのね」

 狐は返事の代わりに濡れた鼻先を寄せ、キーコの唇にキスをくれた。



   *



「うーむ……これはいかぬ」

 夢の街の中でもひときわ高いビルの上で、ひとりの少女が嘆息している。いや、少女と呼ぶのが正しいかどうか。見かけは10歳そこそこだが、目の奥に潜む思慮の光の鋭いことはとうてい10歳児のそれとは思われない。そんな“少女”が、いかなる呪術か、指で作った輪の中をのぞき込みながら、相棒へと声をはりあげる。

「ハナちゃーん! 片付いたかえ?」

「やりましたからねえ?! 悪虫わるむし、いっぱい!! ですから!!」

「いっぱいじゃと?」

 “少女”が腕をおろして振り返る。

 背後で汗を拭っていたのは、見上げるほどの長身の女性、ハナ。可愛らしい名前とは裏腹の肉体派で、鍛え上げた肩は隆々と盛り上がり、スポーティなタンクトップと綿パンツの隙間からは鋼のような腹筋がのぞいている。しなやかな腕を伸ばした先には血まみれの金属バットがぶら下げられ、更にその先に、異形の怪物たちの撲殺死体が4つも積み上げられている。

「いつのまに増えた?」

「いつのまにか増えた?!」

「いよいよいかぬな」

「テル姫!! アメ!! 食べますかねえ?! 悲しいとき、アメ食べるのは、元気なります。しょうみのはなし」

「いらぬ。ハナちゃんのあめはミソ味であろうが?」

「おいしいよ?! これは、いがいなこと」

「その話は後じゃ。急がねばまずい」

 “少女”テル姫はどうにかミソあめを辞退しようとハナちゃんから距離を取りつつ、再び夢の街に目を向ける。

「このままでは完全に喰われてしまうぞ……あの女子おなごは」



(つづく)

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