第3話 恐怖

大野は自室に閉じこもっていた。出社しなければいけないという思いはあるが、体がこわばって動かない。


朝の通勤電車を想像すると、呼吸が荒くなり、苦しくなった。


自室のカーテンを開けると、小さな窓から激しい太陽の日差しが降り注いでくる。朝6時だというのに、この暑さは異常だ。


当然、自転車で会社へ迎えるほどの天候ではなかった。


大野は両手にかいた汗をパジャマのズボンでぬぐい、手を震わせながらスマホを手に取る。電話帳から上司の携帯番号を探し、深呼吸してから電話をかけた。


「お疲れ様です、大野です。すいません、本日もお休み頂いても宜しいでしょうか」


細々とした声で、なんとか絞り出すように言葉を発した。上司は、


「いいけど、お前の仕事がどんどん溜まっていってるぞ」


と、呆れたような口調で答えた。


大野はすいませんとだけ言い残し、電話を切った。会社にある自分のデスクを想像する。


無数のクリアファイルがデスクに横たわり、少々なだれている気がする。重要な案件はないはずだが、ややこしい書類でいっぱいだろう。


ただ、大野にはそんな事どうでも良かった。とにかく、電車のことを考えるだけで手が震え、体がこわばる。この症状を治す方法を考えるのが先だった。


25年間生きてきて、初めて味わう感情。小さい頃はむしろ電車に乗ることが好きだったのに、今は怖すぎてたまらない。


幼稚園生の子でも、ワイワイしながら電車に乗っている。そう思うだけで、自分の惨めさが際立った。


カーテンを閉じ、ギラギラした日差しを閉ざす。カーテンのすき間から漏れ出る光だけが自室を照らし、薄暗くなった。


大野は自室の隅で体操座りし、うなだれた。日常生活に支障はないが、電車のことを考えた途端、汗と動悸が止まらない。


母・法子は部屋の中で閉じこもる息子を心配していた。法子は朝9時から14時まで、近所のスーパーでパート勤務している。


昨日、今日と突然会社を休み、部屋に閉じこもる息子が気がかりだった。ただ、まさか電車が怖くて悩んでいるとは知らず、てっきり会社で辛いことがあったのだと勘違いしていた。


法子は心配しながらも、クリーム色の軽自動車に乗り込み、パートへと向かった。


大野は母・法子の車が走り去る音を聞くと、少しホッとした。過度に心配をかけることもなく、干渉されることもない。


大野は部屋の隅からゆっくりと立ち上がり、その場で背伸びをした。今は精神の不調以外は体調良好で、気になる症状もない。


呼吸も安定し、出社できるほど体調は優れている。ひょっとして今なら電車に乗れるかも。


朝の満員電車と違い、通勤ラッシュを過ぎた朝9時過ぎ。ローカル線のため、通勤ラッシュ時以外は電車は空いている。


厳しい日差しは気になったが、2日間も家に閉じこもっているわけにはいかない。なにより、自室に閉じこもっているだけで、どんどん精神が悪い方に吸い込まれていく感じがした。


大野は意を決して、O駅へ向かうことにした。呼吸を乱さぬよう、ゆっくりと歩きながら駅舎を目指す。


背中に汗をかきながら、10分ほど歩くとO駅が見えてきた。幸い、ホームには誰もいない。


これなら余裕で電車に乗れるな。大野は少し気分が明るくなった。息苦しい満員電車がキツかっただけなのだと感じた。


ホームに着き、3分ほど待つと2両編成の電車がやって来た。予想通り、電車には数人の乗客しかおらず、席も空いている。


これなら大丈夫だ。大野は2両目の真ん中の扉から乗車し、扉に一番近い席に座った。背中を流れる汗が気になったが、電車内は冷房のおかげで涼しい風が吹いていた。


発車時刻となり、扉が閉まる。と、次の瞬間。大野の心臓が激しく鼓動を始めた。


嘘だろ。大野は恐怖心に包まれたまま、電車はゆっくりと動き出した。




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