――昔語り――屋根裏の秘密 -Ⅲ

 何もかも、私が軽率で迂闊でした――そう、先生は深く頭を下げた。

「……君を娘の教師として雇用していたのは父親である私だし、君の道具を勝手に使用したのも娘だ。責任の全てが、君にあるわけではない」

 錯乱する私をなだめるうちに、父は冷静さを取り戻した。いや、その胸中は決して何一つ、納まってはいなかっただろう。

 父は腹の内に渦巻く激情を、なんとか抑え込んでいた。その熱が、私に向けられたものであることを祈る。私はどんなに怒られても失望されても良いから、先生には怒りの矛先を向けないでほしかった。

 けれども先生は、その場で解雇を言い渡されて。

「先生は悪くない。私は先生に辞めてほしくないよ」

「いいえ。僕には大人として、指導者として、魔法を扱うものとして、責任があるのですよ。本当は、辞めればそれで責任が取れるとも思っていません。けれどお父上が、それが最低限の責任の取り方だとおっしゃられたので」

「娘が悪くなかったとは言わない。けれど全ての発端は、不用意に魔法を使った君にあると言って良いだろう。二度とエリザベスの前に顔を見せてくれるな」

「本当に、申し訳ありませんでした」

 改めて謝罪を重ねる先生は、頭を下げたまま言った。

「ただ、鏡から複製された子は……この子のことだけは」

 私は胸元を掴んだ。この子――もう一人の私に、あの子に、鼓動はあるんだろうか、なんてことを考える。

 思えば先生は、生き物だけは複製しなかった。命あるものを砕くのはつらい。

 私は自分の過ちを、あの子を、なかったことにしたかったけれど。とてもじゃないけれど、命無きものとして扱い、砕くことなんてできなかった。

「確かにこちらで預かろう。一人くらい、養育できる」

 父の言葉に、そういうことになるのか、と熱っぽい頭で思った。

 以前参加したチャリティーコンサートの主催者は大変な慈善家で、孤児院から子どもを迎えていたし。母の主治医だった先生も、跡継ぎに恵まれなくて養子を引き取っていたし。きっとそんなに珍しいことじゃないんだなんて、後ろめたさをごまかそうとする。

 こんなにも唐突に人間が生まれるなんて、珍しいを通り越してあり得ないというのに。


「僕が連れていくべきなのかもしれませんが」

 先生があの子に語り掛ける。あの子はただじっと、先生を見つめていた。

「自分の娘と姿を分かち合ったものが、他人の元に渡るのも薄ら寒い。魔法の産物とはいえ、この存在を自由に扱う権利は君にもないと思うがね」

 私であって私でないもの。

 それをどんな存在として認識すればいいかなんて、私も、父も、先生だってわかっていない。

「……魔法の鏡で生物を複製した経験はありません。今後この子の身に何が起こるのかは、僕でもわからないんです。僕は二度とエリザベスさんに関わることはありませんが、その上で」

 先生はあの子の背を、そっと押すようにして言った。

「この子に何かあった時は連絡をいただければ、出来る限りのことをさせていただくつもりです」

 母の体が悪くなった時に主治医を呼んだように、魔法から生まれたあの子に異変があった時に魔法使いである先生を呼ぶ。これはそういう話なのだろうけれど。

(あの子の元には、先生が駆け付けてくれるんだ)

 そのことが酷く、羨ましかった。

 先生は去り際に、あの子に琥珀のブローチを渡した。

「どうというものでもありませんが」

 何でもいいから、先生はあの子に何か残したかったんじゃないだろうか。

 あの子は瞬きすらせず、蜥蜴が影を作る橙色の輝きに魅入られていた。

 こうして私の元には、私の姿をした『硝子の蜃気楼』が残り。

 代わりに、大好きだった先生が去って行った。


 その後、先生からは一度だけ手紙が来た。

 それは万が一あの子の身に何か起きた時、連絡が取れるように居場所を記したもので。二度と私に関わらないと言った言葉通り、その一通きりで連絡は途絶えた。

 私は寂しさと罪の意識を抱えながら、それでもこれからは、あの子と姉妹のように暮らしていくのだろうかなどと考えていた。

 友人のソフィアとフィオナのように、おそろいの洋服を着たり、好きなお菓子を取り合いしたり、ピアノを一緒に弾いたり。

 本当に自分勝手だけれど、母を失い先生も去り、きょうだいのいない私はあの子との新しい生活を楽しめたらと思っていた、のに。

 父はあの子を、私から引き離した。

 あの子に与えられたのは、季節ごとの十分な衣服と、毎日の食事と、小さな屋根裏部屋と。最低限の衣食住。

 あまり外を出歩かなかった私は家中を探検していて、あの子の部屋になる以前の屋根裏部屋も知っていた。

 昔、今は去った使用人の一人が住んでいたらしい。部屋にはベッドとテーブルと、箪笥と少しの本が入った書棚と、簡素ながらも一通りの物は揃っているようだった。

 けれどそれがあの子の世界の全てで。

 世界を何も知らない生まれたてのあの子を、父はそこに隔離した。

 あの子が私よりもずっと窮屈な生活を送っているのは、想像に難くなかった。いや、窮屈だとか不自由だとか、そんな言葉で足るものではない。

 あの子は無一文で寒空の下に投げだされるようなことはなく、飢えず、凍えず生きていける。

 父は確かに、人ひとりを生かしているけれど。

 狭い屋根裏で、世間から隠されるようにして。教育も、楽しみの一つも。愛情のひとかけらさえも与えられない生に。

(何の意味があるの)

 私は何度も、父にあの子の扱いを改めるように進言した。

「あれは人間ではない。かといって、砕いて処分するのも非情だろう。私はやれるだけのことを、あれにしてやっているつもりだ」

 あんな風に閉じ込めておくのは、十分非情だ。

 そう言い返してやりたかったが、私は偉そうなことを言える立場だろうか?

 そもそもあの子を生み出したのは私だ。自分であの子の存在に責任を取ることもできなくて、父に押し付けているというのに。

 今のあの子の処遇が父にできる精一杯のことで、気持ちの折り合いのつけ方ならば。私が正しい人間のように振る舞い、父を薄情者などと罵ることなどできるはずもなかった。


 そうしてあの子の存在を見ないふりして、たった独りの生を与えてから、五年の月日が過ぎ去った。

 永遠に十五の私の姿をしたあの子と違って、私は大人になった。

 多くの時間を父の決めた狭い世界で過ごし、息苦しい毎日を送り。それでも私はあの子より、はるかに自由な時間を過ごしてきた。

 だからベッドから動けなくなった時に、これは罰なのだと思った。

 奇しくも母の命を奪った病と、同じ流行病に罹患した。

 こんなに苦しい病も、きっとあの子は罹らないんだろうななんて思う。

 人と同じ病気に罹るかもわからないし、何よりあの子は一歩も屋根裏部屋から出られないのだから。

 けれど病に苦しまないからといって、あの独りきりの部屋に何の喜びがあるのか。

 ――この子に何かあった時は。

 あの日の別れ際、先生の言葉を思い出す。

 今、あの子に何があったわけではないけれど。

 ずっと、あの子には何もなかったけれど。

(先生)

 私はあの時、先生にごめんなさいと言わなかったんじゃないかしら。

 先生ばかりが、謝っていたんじゃないのかしら。

 あの子にも、謝ったことなんてなかった。

 悪いのは私だったのに。

 重く、痛みを訴える体をベッドから無理やりに起こす。震える手で呼び鈴を鳴らしてメイドを呼んだ。

 あの子を屋根裏に押し込めてから極力減らした使用人のうち、私が子どもの頃から仕える最も古参の者が駆け付ける。

「ペンとインクを、持ってきて」

 元気だったころ、父の目を盗んで控えた先生の住所。あの子の万一を考えているなら、きっと先生はまだそこにいるはず。

「私の書いた手紙を、郵便屋さんに渡して。パパには、見つからないように」

 私の言葉に、メイドは心得たようにうなずく。

 震えた字で綴る、インク染みだらけの手紙。

(先生)

 あの子のために何もできなかった、愚かで無力な私の代わりに。

(あの子を、助けて)

 どうかあの子を、ここから連れ出して。







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