――昔語り――屋根裏の秘密 -Ⅱ

 花に、工芸品に、本に。

 先生は私に、たびたび魔法の鏡から生み出した品を見せてくれた。 

 お花屋さんで買えるものでも、すぐに摘んでこられる野の花でもない白い花は、先生が以前登山した時に写した高地の花。

 鏡に映したものだが、左右反転はしていない。あくまで鏡は出入り口で、作り出すのは魔力だからとか。よくわからないけれど、魔法のなせる神秘だと理解した。

 遠い都市で行われた博覧会で展示されていたという陶器も美しかったし。図書館から持ち出しを禁止されている、貴重な本なんてものもあった。

「僕はこれらを『硝子の蜃気楼』と呼んでいます」

 少し格好つけてますかねと、先生は照れ臭そうに笑ったけれど、複製だとか偽物だとか呼ぶよりずっといい。

「じゃあ私、この鏡を『魔法の泉』と呼ぶわ。『硝子の蜃気楼』はまるで泉の中から生まれてくるみたいでしょう?」

 鏡の中から写した物が出てくる時は、水が自由に形を変えて飛び出してくる。水はどんな形にでもなれるし大きさも変えられるから、鏡の枠より大きなものでも生み出せるのだった。

 先生は私の友達にも『魔法の泉』を見せてくれた。それこそ鏡を使って分かち合ったような姿をした双子の姉妹は、同じ顔で楽しそうに笑う。


「魔法というのは、どうにも得体が知れないものだな。害はないのだろうな?」

 父は包み隠しもせず、先生の魔法を気味悪がった。

「最後には処分しています。気を悪くされるようなら、一切の使用を止めますが」

「いやよ、こんなに素敵なものなのに。意地悪なこと言わないでよ、パパ」

 父は私を家の中に留めておくことを、心苦しく思っていたのだろう。体に障ることは厳しく制限されたが、それでも私に甘い父親だった。

 いくつになっても、『パパ』なんて幼子じみた呼び方を許すほどに。

 家の中では見られないものに目を輝かせる私に免じて、先生を厳しく咎めることはしなかった。

 先生の豊かな知識と、『魔法の鏡』が見せてくれる外の世界の一部と。

 私は家の中に居ながらにして、多くのものを学ぶことができた。もしかしたら外で遊び回る子どもたちよりも、ずっとたくさんのものを目にしているのかもしれない。そんな風にさえ思っていた。そう思って、子ども時代を過ごしていた、けれど。

 私が十五の時、母が亡くなった。

 棺に納められた白い花、白い顔の母。

 枯れ枝のようにやせ細った母の腕に、抱かれた記憶は少しだけ。優しく笑い、穏やかにお話をしてくれる母を私は心から愛していた。

 この世から消えてなくなるというのは、どういうことだろう。

 魂という形のないものは神の国へ行くというけれど、肉体は土に還る。母の姿形は、この世から永遠に失われるのだ。

 抱きしめてもらうことも、笑い合うことも、お喋りすることも二度と叶わなくなる。

 体を失うという事は、愛する人との一切の繋がりが失われるということ。それでどうして、恐怖せずにいられるというのか。


 ある時、先生と勉強中に、私は突然涙が止まらなくなってしまった。

 母が亡くなってから、私の心はところ構わず悲鳴を上げるようになった。

 先生がキッチンに水を貰いに行って、私は一人、机に突っ伏しながら気持ちが落ち着くのを待つ。頭を乗せた腕の位置が心地悪くて、少しでも楽になれる姿勢になろうと手を動かした。

 その時、指先が冷たい何かに触れた。重い頭を上げる。

 触れたのは『魔法の泉』だった。

 先生は『魔法の泉』を、常に己の目の届く範囲に置いていた。貴重な物だろうし、使い方を誤れば大変なことになるという事くらい、子どもの私にだってわかる。だけど先生は、私が泣き崩れたのを見て、慌てて部屋を飛び出して行ってしまったから。

(どれくらい、私になるのかしら)

 回らない頭で、ぼんやりと考える。

(私もいつか、ママみたいにすべてを失う日が来る)

 それはあまりに恐ろしい想像だった。

 神様はいつか、魂を地上に残る体に還してくれるという。土の中で腐るものに、一体どうやって還してくれるというのか。

(私は、私を、無くしたくない)

 愚かで、罪深いことだとわかっていた。頭と胸がじんじん痛む。

 祈りながら、願いながら、『魔法の泉』に姿を映す。

 鏡の中の、己が歪んだ。

 楕円の鏡面が波立つ。渦を描いて、奔流して、細い水柱が上がった。まるで襲い掛かるような勢いで飛び出した水流は、私が座る椅子から一歩離れたところに着地して人の形を作った。

 巻いた金の髪、琥珀の瞳。

 私と同じ形をした『硝子の蜃気楼』。私の複製。

 もう一人のエリザベス。

『硝子の蜃気楼』は、出来上がった瞬間から――少なくとも、目に見える表面上では――素材も質感も、元になった物質と同じように仕上がった。髪も瞳も、肌も爪も着ているものでさえ、私をそのまま写し取ったそれ。

 眦からつと、雫が流れ落ちたのは、変化しきれなかった泉の水だったのだろうか。


 私はもう一人の自分を、ただ茫然と眺めていることしかできなかった。自ら望んで『魔法の泉』の力を使ったというのに。いざ思い描いたことが実現したら、もうどうしていいのかわからなかったのだ。

「エリザベスさん!」

 先生が部屋に駆け込んでくる。私はただ硬直し、先生の方を振り返ったのはもう一人の私の方だった。先生は片手で頭を抱えて、そのまま私の元まで早足で歩み寄った。

「なんということをしたんですか……!」

 両肩を掴まれ、真正面から詰め寄られる。いつも穏やかに笑んでいる先生からは考えられないくらい、怖い顔で。何一つ言い訳できることなんてなくて、私はただ喘ぐしかできなかった。肩に食い込む先生の指先が痛かった。

「先生、わた、し」

 先生の肩越しに、模造の私の姿が見える。私と同じ顔で、ぼんやり私を見つめていた。

「エリザベス!」

 部屋に飛び込んできた声に、もう一人の私が肩を震わせる。

「パパ」

 血相を変えて現れたのは父だった。部屋の中に二人の娘がいることを認めて顔を一層険しくすると、今度は私に迫る先生を見つけて――その頬を殴り飛ばした。

「先生!」

 先生はよろけて、勉強机を支えに踏みとどまる。父は先生が手をついた傍にある『魔法の泉』を見つけると、それを床に投げつけて叩き割った。念入りに踏みつけて、鏡を粉々に砕く。

「パパ、やめて! 違うの、違うの!」

 先生が悪いわけではない。先生は私に鏡を無理矢理に使わせたわけでもなければ、危害を加えようと掴みかかってきたわけでもない。

 私は何度も、ちがう、ちがうと繰り返した。

 先生は間違えていない。間違えたのは私。

 すべて自分でしでかしたことなのに、私は過ちをなかったことにしたくて、何度も拒絶の言葉を口にした。

「ちがう、ちがう?」

 私と同じ声が、鸚鵡のように繰り返す。生まれたばかりのそれは体を左右にゆらゆらさせて、こてん、と首を傾けた。

「私はだあれ?」

 その問いに、誰一人答えられなかった。








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