――昔語り―― 屋根裏の秘密

――昔語り――屋根裏の秘密 -Ⅰ

「ねえブライトマン先生。先生のブローチの中にいるそれは、虫なの?」

 私は先生が胸に止めた琥珀のブローチを見つめて問うた。解けない数学の解説よりも、ずっと面白そうだったから。

「これは蜥蜴です。昆虫類ではなく、爬虫類ですね。地を這う生き物です」

 穏やかな口調で、家庭教師は答える。

 ジャン・ブライトマン。

 片眼鏡に長い黒髪。普通はまず見ることのない男性の長髪は、魔法使いによく見られる特徴らしい。そうはいっても魔法使いは今やかなり珍しい存在なので、先生は外見からして奇抜な部類に入ってしまう。

 大昔はどんな使用人よりも職人よりも役に立つものとして、あるいはステイタスの一種として、貴族や財のある屋敷に抱えられていたらしいけれど。現在では数が少ないうえに、魔法使いも力を失ってきているので、わざわざ雇っている家も少ないようだ。

 ロレンス家では数代前の当主――父いわく、物好き――が先生の家系と契約をしていて、その縁が続いているだけのことらしい。先生個人の話なら、教師として優秀だからというだけのこと。

 それでも私は、勉強のこと世の中のこと、色々なことを丁寧に教えてくれる優しい先生が好きだった。

「それって宝石を削って、中に蜥蜴を入れるの?」

 ブローチの琥珀と同じ色の瞳に、金の巻き毛。年の頃は十代の初めほど。布地とレースをたっぷりと使った衣服は仕立てたもので、私は言葉通り絹地に包まれて育った。

「いいえ。琥珀は樹液が長い年月をかけて固まったものです。その途中で、蜥蜴や虫、植物などが混ざって固まることがあるんですね」

「樹液って、木の中を流れているもの?」

「簡単に言うなら。そういえば、この前そこの公園で木の伐採を行っていましたが、樹液が多くて大変だったみたいですね」

 公園の風景を思い浮かべた。近所だけれどエレクトレイ市営の公園は敷地が広大で、幼い自分は奥に行く頃には父に抱っこしてもらっていた。

「妖精が見たいな」

 記憶の中で、父の腕の中から見つけたそれ。

「公園の奥に池があって、噴水があるでしょう。その噴水には、小さな妖精の銅像があるの。噴水で水遊びしたり、小鳥の銅像と遊んでいたり。私は水盤から飛び立とうとしている妖精の子が、一番好きだったわ」

 机上の本立てに並ぶ、図鑑の背表紙を眺める。


「……もっと外に行きたい」

 図鑑や書物ではわからない、外の世界が見たい。

「お父様はお許しくださいませんか」

「ママのためだもの。私だって我慢するけど」

 私の母は体を壊していた。

 以前罹った流行病で、その時は一命をとりとめたものの、完治するに至らなくて。

 そのために父はすでに体の弱った母や、私自身のためにも、積極的に外を出歩くことを制限している。年中いつでも感染症が蔓延しているわけでもないが、街中は空気が悪いというし。

 今では公園も入り口付近までとか、知人のお誘いを受けた催し物やパーティーに短時間だけとか。父の許可した狭い範囲の中で、限られたものだけを見ていた。

「おうちの中や近所だけじゃ見られない花も草木も動物も、景色もあるんだわ」

 窓硝子の向こうに、飛ぶ鳥が一羽。

「……そんなこと言ったって、仕方ないわね。ごめんなさい先生、無駄話をして」

「僕で良ければ、いくらでも話し相手になりますよ」

「先生のお話は、いつも面白いわね」

 父よりもまだ少し若い、家族とも親戚とも立ち位置の違う、この大人の存在は特別だ。

「でもお友達が来てくれて、お喋りすることもあるのよ。私より小さい子たちだけど、双子の女の子たちでとても可愛いの」

「それは楽しそうですね」

「今度、先生にも紹介してあげるわね」

「楽しみです。さ、お喋りはこの辺にして。勉強を再開しましょう、エリザベスさん」

 先生に促されて、私は大人しく教科書を開く。紙の上には、何の面白みもない文字と数字が並んでいた。


 次に来た時、先生は鏡を持ってきた。

 私の顔くらいの大きさで、持ち手はない楕円の鏡。蔦が絡んだような意匠の、金色のフレームが美しかった。

「鏡なら私も持ってるのに」

 寝室のドレッサーまで先生を連れていくことはできないけれど、手鏡でも小さな壁掛けの鏡でもこの家にはある。

「これは魔法の鏡ですよ」

「魔法の鏡?」

 童話みたいに、鏡が語り掛けてくるんだろうか。のぞき込んでも、見慣れた自分の顔が映るだけだった。

 先生は鏡を手に持つでも立てかけるでもなく、勉強机の上にそのまま置いた。銀のお盆を机に載せるように。 

 先生の五本の指先が、鏡の表面を撫でた。

 鏡面に置いた指先が、鏡の中で歪み無く像を結んだのは一瞬。

 硝子の表面が揺らいで、まるで水面のように波紋が広がる。指を離すと水玉が跳ねて、波紋の中心から水が噴き出した。小さな噴水のように湧き上がった水は生き物のようにうねって、机の上に着地する。水は机を止まり木代わりにして、その場で形を作っていった。

「あっ」

 なめらかな曲線を描く、小さな人影。蝶のような羽根。

「噴水の妖精だわ……!」

 驚きに思わず覆った口から、感嘆の息が漏れた。

 鏡から現れたのは、公園の噴水に設置された妖精の像だった。私が一番お気に入りの、飛び立とうとしている妖精の子。

「さすがに噴水丸ごとを、お部屋に作り出すわけにはいきませんでしたが」

 抱き人形と同じくらいの大きさの妖精が、一人だけ。それでも目の前にあるはずのないものが現れて、私は興奮していた。

「すごい、すごいわ! ねえ先生、これは魔法なの?」

「これは魔法のかかった鏡です。鏡に映したものを複製することができるんです。一度写したことのあるものなら、強く願えば取り出すことができますよ」

 所詮は虚像ですけれど、と先生は難しい言葉を付け足した。


「先生が魔法を使うところ、初めて見たわ」

「使う機会もないですし、己の身一つで簡単に魔法を操れるほど、現代の魔法使いは万能ではないので。こういう、古くからの魔法道具なんかがあると、少しは珍しいことができますけどね」

 私は記憶の中にある公園の妖精像と、目の前にある魔法で造られた妖精の像を照らし合わせた。鏡から生まれた妖精像は複製だけど、偽物と呼ぶにはあまりに精巧だった。

 それはそうだ、鏡に映ったそっくりそのままの形で生まれたのだから。

「先生、この妖精さん、私がいただいてもいい?」

 そう聞くと、先生は困った顔をした。

「申し訳ありませんが、それはできないです。……ちょっと、酷いものを見せてしまうのですけれど」

 先生は妖精に手を伸ばした。その小さな頭を撫でるように触れた一瞬、妖精の像が光って。

 まるで鏡が割れるように、妖精の銅像は粉々に砕け散ってしまった。

「ごめんなさい、あまり気持ちのよくないものを」

 呆然とする私に、先生はゆっくりとした口調で言った。

「勝手に作り出した偽物である以上、この鏡から生み出したものは、最後にはこうして砕いてしまうことにしているんです。消してしまわなければならない」

「せっかく綺麗だったのに……」

「エリザベスさんのお父様は、絵画や美術品をお持ちですよね。どれも画家や作家の方が懸命に制作したものです。ものによっては古いもので、現在では生み出せないものもあります。この世に限られた分だけしかないものなんです。いたずらに増やしていいものだと思いますか?」

 私は先生の言葉を何とか飲み込みながら、小さく首を振った。

「それに正当な価値をつけて、お父上はその価値に見合うだけの金銭や対価を払って手に入れたのですから、やっぱりその価値が揺らぐようなことはしてはいけません」

 机の上に散った銀色の破片は、水滴へと変じて乾いて消えた。

「今しがた、こうして魔法の力で偽物を作った僕が、言えたことでもないんでしょうけどね」

 存在を許されるものではないのに、生み出す。壊してしまうのに、作る。

 先生は悪いことをするような人ではないから、その真意がどこにあるのかを私は考えた。

「……ただ、エリザベスさんが自由に出掛けたり、家の外にあるようなものを見たり、触れたりすることが難しいと知っているとね。少しくらいは、偽物でも目にできる機会があればいいと思うんですよ」

 私が好きだと言った、妖精の像。他にも、私は見たいものがたくさんある。

「その場限りの秘密という事で、学習の一環という事にしちゃいましょう」

 そう言って先生は、片眼鏡をかけた左目をつむった。








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