祝宴の陰 -Ⅵ
背後から、耳慣れた声がした。
そう、馴染んでしまった。
甘いよりも清涼な、熱量のある声。
だけど今、その声が、この場で聞こえるはずないのに。
「ニックさん」
栗色の瞳が驚きに見開かれている。多分、リザ自身の瞳も。
振り返った先にいたニックは、いつもより少しだけ上等なスーツを着て。いつもより念入りに前髪を固めて露わになった額には、治りかけの傷が走っていた。
「わっ?」
急に、コリンがリザの背中に飛びついてきた。腰に回した腕にぎゅっと力を込めて、背に顔を押し付ける。
顔を見られたら面倒なことになるのは、コリンも同じだ。リザはコリンをかばうように体の位置をずらしながら、ニックと真正面から相対した。
「こんなところでお会いするなんて、驚いたな」
いつもと違った場で、いつものように人好きのする笑顔でニックが言った。
「ええ、本当に」
本当に、なぜニックがここにいるのか。
心の中で、嘘つき! となじりながら横目でダニエルを確認すれば、ご婦人二人をにこやかに追い払っているところだった。どう丸め込んだものか、笑顔で手を振りあっている。情報屋の信用が揺らごうとしているのに、暢気なものだ。
「先程、入り口で名前が聞こえたから、もしかしたらとは思ったんですが」
「父の仕事上のお付き合いで、ご招待を受けて」
事前にダニエルとすり合わせておいた偽装設定を答えた。
ニックと話す時は、いつだって偽っている。今更だけど、そんな自分が白々しく思えた。きっと場が場だけに、いつもよりずっと気を張っているせいだ。
「もしかして、ニックさんもご招待を?」
警察側も、標的側も、エリザベスがブルーサファイアを狙っていることを表に公表していない。パーティーの招待客に気を使ったのだろう。だからリザはニックが怪我をしているからという以前に、彼がここにいる理由を知らないことになる。
「今日はパーティーの警備依頼です。非常に高価な品が、会場にお目見えしているということで」
ニックの答えは、リザの知りたいものではなかった。けれどこれ以上問いを重ねるのは難しい。先輩警官に止められていたことを、リザが知っているはずがないのだから。馴染みのサンドイッチ屋が噂していたというのも厳しいし、あまり深く追求したら身辺を疑われかねない。
ニックは怪盗エリザベスが現れることさえ口にしなかった。
「その、後ろの子は?」
ニックが首を傾ける。その仕草がリザの背後を覗き込んでいるように思えて、思わず早口で答えた。
「弟です」
「弟さん?」
小さな腕に力がこもる。コリンについて深く追求されることを避けたくて、リザはニックの意識を隣の男に向けることにした。ダニエルにそっと目配せをする。
「それで、こちらが」
「リザさんの婚約者です」
「えっ?」
「はああああ?!」
顔色ひとつ変えず、にこりと微笑んだ情報屋改め詐欺師の発言に、リザは淑女らしからぬ声を上げる。
「えっと、大変素敵なご婚約者ですね……」
「父の会社のっ、ただの、従業員です!」
ダニエルの脇腹を肘でどつきながら、リザは全身全霊で否定する。
「父の都合がつかなくて、代わりに出席してもらっただけですからっ」
肘鉄をくらってなお表情を崩さぬ相手にリザは、こいつ後で絶対殴ると誓った。
「えっと、どういうことなん、ですか?」
「ほんっと、くだらない冗談が好きな人で!」
「はあ」
ニックは困惑したままだ。リザは思わず声を張る。
「私みたいな小娘に、縁談なんてあるわけないですし!」
「小娘なんて、そんな。びっくりしましたよ、今日はまたずいぶんと大人びて見えますから」
自身もまた、普段とは違う装いでニックは笑う。
「お綺麗です」
その言葉に、しばしリザの時間が止まる。
だってそんな、そんなふうに言われるなんて。褒められれば嬉しい、それだけのことだけど。
見れば言った当人も、褒め慣れていないのか忙しなく視線をさ迷わせる。それでますますどうしたらいいかわからなくなって、二人揃って顔を赤くする始末だった。
「……った」
急にお腹のあたりが圧迫されて、リザは小さく声を上げた。背後から腰に巻きつくコリンの腕に、さらに力がこもる。
「ちょっと、痛いよコリン。いた、ごめんね、ほったらかしで」
「なんだ、ずいぶん甘えん坊だな」
せっかくコリンから気を逸らしたのに。
ニックは背中越しのコリンに視線を合わせるように、少し身を屈める。
「ごめんなさい。この子、人見知りが激しくて」
「そんなふうに、お姉さんに守られてばかりじゃ駄目だぞ。君がお姉さんを守ってやらないと」
温かくも厳しい励ましを、コリンは拒絶する。顔を見せる訳にはいかないし、よく知らない相手の声が届くほど、この子どもの心は開いていない。
「彼は私が連れて行きます。コリン君、ルイズお嬢様にお祝いを言いに行きましょう」
「え、ああ、お願いね」
ダニエルは自身を盾にしながら、コリンをリザから引き剥がす。自然な所作だったが、恐らくニックにコリンの顔は見えなかったはずだ。
「なんというか……色々お恥ずかしいところをお見せしまして」
「いえいえ、俺も突然話しかけたから」
淑女としては散々な振る舞いを見せたにもかかわらず、ニックは朗らかに返した。
いつも変わらない笑顔に、一条の傷跡が刻まれている。
糸こそ抜かれていたものの、赤く膨れたそれは見るからに痛々しかった。
「傷、痛いですよね」
思わず額に手を伸ばす。触れたところで何を癒せるわけでもないのに。
指先が届く前に、ニックにやんわりと腕を取られた。
「あ……。ごめんなさい、いきなり」
「その、手袋が汚れるといけないですし」
傷に触ろうとした手を止めたニックは、あくまでリザを気遣う素振りを見せた。治りかけの傷に触ろうとするなんて、リザのほうが非常識なのに。
「ヘマばかりで情けない」
「そんな怪我で、お仕事しなきゃならないなんて」
「先輩には、見苦しいから来るなって言われたんですけどね。やっぱり職務は全うしたくて」
ああ、そうだった。
リザは思い知る。
ニック・ドーソンという人は、己の正義に忠実であると。
ダニエルが読み違えたんじゃない、ニックが超えてきたのだと。
「……っと、つい喋りすぎてしまった。すみません、仕事中ですのでこれで失礼します」
「こちらこそ長々と。……お仕事、頑張って下さいね」
「いい夜を、リザさん」
これには答えず、リザは小さく手を振った。
彼女はこの祝福の夜を、これからぶち壊しに行くのだから。
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