祝宴の陰
祝宴の陰 -Ⅰ
朝一番に火を入れた暖炉は赤々と燃え、居間は心地よいぬくもりに満ちていた。
「おはよう、リザ」
「えっ、コリン?」
居間は冷え切って、コリンが起きてくるまでには温まらないかもしれないと思っていたのに。
そのコリンが、暖かな部屋でいそいそと朝食を並べていた。
「えっ、ねえ、もしかしてコリン、ひとりで朝の支度をしてくれたの?」
今朝、リザはうっかり寝すぎてしまった。慌てて身支度を整え、三階の寝室を飛び出して、一階のキッチンまで一気に駆け下りようとしたところ。二階の居間から、ひょっこりコリンが顔を出したのだった。
「うん。ちゃんと暖炉に火、点けられたよ」
リザがコリンに家事の中で一番に教えたのが、火の扱いだった。リザが留守にしている間も、安全に暖炉を使えるように。コリンを寒い部屋に待たせてはおけないと、リザは点火の仕方から消火後の後始末まできちんと教えた。
コリンは父といた頃には、今よりまだ幼かったせいか家事の類は教わっていないようだった。あのクソ親方もコリンには絵描きに集中させていたらしく、他の労働に酷使されることはなかった。
屋根裏にはオイルランプはあったからマッチは扱えたけれど、暖炉なんてものはなくて。凍えるような夜でも薄い襤褸毛布一枚でしのいでいたのだという。
「お部屋、あったかい?」
コリンはにこにこしている。
きちんと物事を教えてくれる人がいて、温かい場所がある今は幸せだと言った少年の笑顔が沁みる。
この笑顔を救えて良かったし、かつての自分を見ているようでもあったから。
「朝ごはんも作ってみたよ。簡単なものしかできなかったけど……」
コリンには暖炉の使い方を教えると同時に、オーブンに火を入れる方法も教えた。難しい火加減はまだうまくできないけれど、パンやお湯を温めることくらいならできるようになった。
「リザは昨日の夜、お仕事だったでしょ。だからゆっくりお寝坊してほしかったんだ」
「そんな、起こしてくれてよかったのに」
コリンがぎこちない動作ながらも、椅子を引いてくれる。席を勧めながら、コリンはリザの顔を覗き込んだ。
「ねえリザ、まだ寝てていいよ? 顔色が良くないもの」
昨晩帰宅したリザは疲れきっていた。マントはボロボロで、足取りも怪しかったと思う。怪我はないか酷い目にあったりしていないかと、コリンが質問責めしてきたのも、無理もない有様だったのだろう。けれどリザは早く眠りたいと、さっさと部屋に引っ込んでしまったのだった。
「大丈夫、ちょっと疲れてるだけだから」
「それは大丈夫じゃないと、思う」
酷く心配そうなコリンに申し訳なくなりながらも、リザは明るく振舞う。
「平気、平気。コリンの作ってくれた朝ごはんを食べたら、きっとすぐ元気になるよ」
リザは皿のサンドイッチを手に取る。切っていない四角いままのそれに、笑顔でかぶりついた。
「うん、おいしい。ありがとうね、コリン」
「本当? 良かった」
まだ少し不安そうにしながら、コリンは自らもサンドイッチを頬張る。
「あれ……」
一口齧ったあとを残して、コリンはサンドイッチを皿に置いた。
「あんまり美味しくない……」
サンドイッチの具は、味付けした魚。瓶詰めになった魚のオイル漬けをほぐして具材にすれば刃物はいらないから、ナイフの苦手なコリンでも作れると考えて挑戦したのだろう。
「脂っこくてギトギトする。パンもいっぱい油を吸っちゃって、おいしいなんて嘘だよ。リザ、無理してるでしょう」
震えるコリンの手の中、サンドイッチから具材がぼろぼろとこぼれていく。
「こんなの食べちゃだめ、食べないでリザ。ごめんなさい」
「食べちゃだめ? 私は全部食べたいな」
リザは一口、もう一口とサンドイッチを頂く。
指先と口元を油で汚しながら、それでもリザはにこりと笑った。
「私のためにご飯を作ってくれた人は、パパ以外ではコリンが初めて。本当にありがとう」
料理の出来なんて、些細なことだ。自分のために、あたたかな部屋と料理を用意しようとしてくれたことが何より嬉しい。
「本当に嬉しいけど、これは油をきちんと切れば、もっと良くなったでしょうね。またお料理、教えてあげる」
「うん。僕もっと、リザの役に立ちたい」
「無理はしなくていいんだよ?」
リザはティーポットに手を伸ばした。コリンが慌ててそれを遮って、二人分の紅茶をカップに注ぐ。手つきは危なっかしいけれど、それでも懸命に紅茶を淹れようとする姿が微笑ましくて、リザは静かに見守った。
「だって、リザは怪盗のお仕事だって頑張ってるから。昨日だって、大変だったんでしょう」
「うーん」
リザは困ったように眉を寄せる。
「ちょっと、後味が悪かったかな」
コリンもリザと同じように眉間に皺を寄せ、首を傾けた。
「昨日の標的だった絵画。持ち主の方は、偽物であってもとても大事にしていたの。それを跡形もなく消し飛ばしてしまったから、さすがにちょっと心が痛んだな」
紅茶を一口飲んで、リザは小さく息を吐いた。
「市内の教会に飾られている宗教画の、『神の都』だったよね」
「うん、そう」
昨晩の出来事が、頭の中を巡る。リザはぼんやりとしながら、コリンの話に相槌を打った。
「僕もなんども見たことがあるし、お父さんと一緒の頃に模写したこともあるよ」
「うん」
「そうだ。ねえリザ、『神の都』だったら」
言いながら、コリンは急にテーブルに身を乗り出した。
「それにニックさんにも、大怪我させちゃった」
「……え?」
「あ、ごめんね。コリン、何?」
ぼんやり考え事をしていたら、コリンの言うことを遮ってしまった。
前のめりになっていたコリンは、気勢を削がれたようにゆるゆると首を振る。
「ううん、何でも……」
「ごめんごめん、なあに?」
「いいよ、大丈夫。それより……ニックさんって、その、警官さんの」
コリンの窺うような目つきに、リザは再度自分の話を続けた。
「昨日のお仕事中に、ガラス屋根を破ったらニックさんが落ちてしまって。ニックさんの足元のガラスまで割れるとは思ってなかったんだもの。そんなの言い訳だけど。血も出てたし、どうしよう」
リザは紅茶の表面をじっと見つめた。
瞳と同じ琥珀色の水面が、不安定に揺れる。
「そんなの、だって。警官さんをやっつけなくちゃ、リザが捕まっちゃうじゃない」
「そう、そうなの。そんなのわかってる」
気遣うようなコリンの表情と言葉に、正当性と許しを見出す自分がいて。
「わかってるけどね。いい人、なんだもの」
一方でどうしようもなく罪悪と、罪の意識を感じることさえ愚かしいと思う自分がせめぎ合う。
「だめだよ」
コリンが言った。
責めるとも、叱るとも違う、酷く揺らいだ声音で。
「リザはあの人に、優しい顔なんて見せちゃ、だめ」
コリンが掴んだ、テーブルクロスが歪む。
「……そうだね。私は何よりも、『魔法の泉』を見つけ出してパパの無念を晴らすことに、集中しなくちゃ」
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