迷いの庭 ‐Ⅵ
残った屋根の下、白い鉄の柱に引っ掛けられた絵画。絵と向かい合う位置に置かれた籐の椅子に、その人は座っていた。
「……こんばんわ、坊ちゃま。お怪我はなくて?」
坊ちゃまと呼びながら、相手はエリザベスよりも年上だった。おそらくニックと同じくらいの青年。成人してなお坊ちゃまと呼ばれる彼は、この屋敷の主が第一の息子。この迷いの庭の主人であった。
「こちら側の屋根は割れなかったから、大丈夫」
「大事なお庭で暴れて、ごめんなさいね」
器物損壊。エリザベスの罪はこうして積み上がっていく。もうどうしようもないと、振り切ってしまうしかないけれど。
「本当に。君が侵入した時に邪魔だからと、ここ以外の庭の植物はほとんど刈ってしまった。突貫だったよ。根こそぎ引っこ抜いたわけじゃないから、また戻せるだろうけど」
「それは本当に、申し訳なかったわ」
青年の白い顔を見つめる。
エリザベスが駆け抜けてきた、刈りつくされた寂しい庭も。幼い頃から体が弱く、屋敷の敷地内で過ごすことの多い彼のために、丹精込めて造られた庭だった。
「この迷路の庭は特にお気に入りだから、そのままにしてもらったんだ。下手に荒らされたくないから、警備はそこの刑事さん一人だけにお願いしたんだけど」
青年の指さした先に、ゆらりと揺れる襤褸切れがあった。
それはただの布ではなく、ニックが着ていた上着だった。ニックは頭に引っ掛けるように上着を被って、着地の体勢から起き上がろうとしていた。
屋根が割れた際に、咄嗟に上着で身を守ったのだろう。ガラスに裂かれてずたずたになったそれは、エリザベスのマント以上にひどい有様だった。素材や厚さの違い、瞬間的な判断、様々に差があるだろうけれど、そんなものはどうでも良くて。
ただ懸命に立ち上がろうとするニックの、ガラスで切った額から、頬から、腕から流れた血が床に散るたびに臓腑が冷えた。
「ま、て……」
呻くような声。
(待つわけになんて、いかないでしょう)
待つわけにも、手をのべるわけにも。
湧き上がる罪悪感を飲み込んだ。振りきって、標的に向かう。
私は怪盗で、彼は警察官なのだから。
「僕も間近で、怪盗エリザベスの活躍を拝んでみたいものだとは、ちょっと思っていたけど。さすがにこの惨状は、恐ろしいものだね」
「誰も傷つけずにお仕事するのは、ちょっと難しいみたい。だから抵抗しないでいただけると、助かるのだけど」
ニックを視界の端に入れつつ、それでもエリザベスは彼を捨て置いて標的へと歩み寄った。
「この絵、こんなに日当たりのいい場所に飾ったりして。贋作だとわかっているのでしょう」
『魔法の泉』から生み出される贋作は、寸分の狂いもなく本物の姿を写し取っていた。けれど劣化しないわけでも、傷つかないわけでもない。触れようとした『神の都』のまがい物は、ずいぶんと褪せて見えた。
「知っているよ。だけど僕は一番お気に入りの場所で、一番好きな絵を眺めて過ごすのが好きなんだ。偽物だからこそ、気ままに楽しめるっていうのもあるね」
ということは、騙されて購入したわけでもなさそうだ。それが良いことかはわからないけれど、真贋は彼のこだわるところではない。彼の楽しみのために、贋作でも構わずに美術品を収集しているとしたら。
「あなた、『魔法の泉』を知っている?」
「魔法の……? それは何、絵画の名前?」
「贋作を生み出すものよ」
「画商や、それとも作家名とか? 僕は詳しくないし……父様も本当は贋作を好む人ではないんだ。でも僕のお気に入りである、教会に収蔵された宗教画を手に入れることはさすがにできなくて、これだけは偽物を承知で手に入れてくれた」
「優しいパパね」
けれどこの青年からは、求めていた情報を得られなさそうだ。
エリザベスは、絵具の凹凸さえはっきりと見て取れる画布に手を伸ばした。
「偽物だとしても、僕の心を慰めてくれる大切な宝物だよ」
神々の絵に触れようとしていた指先が止まる。
ままならない体を抱えて、箱庭で過ごすしかない青年が、偽物だとしても愛した絵。
それを奪う。父のため、になるかもわからない、己の、勝手で。
ためらった一瞬に、ニックが迫り来るのが見えた。破れた上着が宙を舞う。ニックは怪我人とは思えない、俊敏な動きでエリザベスのもとに突っ込んできた。
「虚像よ無に帰れ!」
躊躇いを吹き飛ばして、エリザベスは標的に触れた。絵画は砕けて、鋭利な輝きを放ちながら飛び散る。
無に帰った『硝子の蜃気楼』のかけらは、なにものも傷つけない。
けれど一度痛い目を見たからだろうか、ニックはわずかにたじろぐ様子を見せた。その隙に、エリザベスは身を翻して出入り口へ向かう。
「あーあ……」
虚無になってしまった白い柱を、青年はぼんやりと見つめた。力なく、それとも一転して激昂し、エリザベスを責めるだろうか。
「でも屋敷に居ながらにして、物珍しい体験をさせてもらったから。それでチャラにしてあげるよ、怪盗さん」
穏やかな声。思いがけない言葉に、エリザベスは首をふるふると降った。
「一番頑張ったのは、そこの警察のお兄さんよ。手当てしてあげてね」
青年の心はチャラになったかもしれないけれど、ニックの怪我は簡単には清算しないだろうから。
ガラスの破片を踏み潰しながら走る。苦難の道のりはいばら道とはいうけれど、ガラス片はもっと鋭く切りつけてくるなんて思う。
(ねえパパ。私が泥棒することと、コリンに優しくしたりニックさんを傷つけて心を痛めたりするのは、別の話だと思う?)
返事のない問いを胸の中で投げかけて、エリザベスは迷いの庭を駆け抜けた。
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