迷いの庭 ‐Ⅴ

 屋敷の主、その長子のために作られた庭。緑の迷路は長子が幼かった頃に拵えられた、遊戯の園だ。

「迷路は図面にも描いてあったけど、攻略法までは書いてなかったからなあ」

 紙の上に描かれた、ガーデンルームを中心に広がる迷路の図。多くの見取り図がそうであるように、迷路も位置する場所にただ四角く線を引いて空間を表しているだけだった。

 生垣を強引に突破っていくには、樹木は力強いし。

「せっかくのお庭を荒らすのは、忍びないしね」

 中心にあるガーデンルームを目指して、内側へ内側へと進んでいく。何度も生垣の壁や、いばらの絡んだ柵に邪魔をされた。行きつ戻りつして、じりじりと標的へと近づきながら。

(厄介だけど、この中には警察は……)

 追って来ていない。そう、思った矢先のこと。

「あ」

 生垣を挟んで、声がした。

 植木の葉が落ちて、生垣の向こう側が見える穴が小さく開いていて。

 その穴から、力強く輝く瞳が覗いた。

「エリザベス!」

「迷路の中に、いらっしゃったのねー!」

 ニックの登場に、咄嗟にエリザベスは来た道を戻った。

 ニックは生垣の穴を無理やりに広げてでも、エリザベスに手を伸ばすだろう。

 そう思ったのに、彼は律義にも道をその筋通りに辿って走り出したのだった。


(迷わず私の所へ来る算段でもあるの?)

 迷路の警備を任されているからには、地図の一つでも貰っているのか。

 姿は見えないけれど、迷路の中にニックの駆ける足音が響く。正しい経路も行き止まりもわからないけれど、足音から逃げるようにエリザベスは走った。

 彼の辿ってきた経路を遡ればゴールに近づけるかもしれないけれど、鉢合わせたら躱すのは困難だ。

(とにかく、彼の動きに気を配って)

 神経を張り巡らせて足音や息づかいを探っていたら、先程まで拾えていたニックの気配が途絶えた。遠ざかったのか、それとも。

(気配を察知されないように、そっと近づいてきているか……)

 エリザベスは息を飲んだ。走って乱れた息を整え、己も気配を消す。暴れる心臓をなだめすかして、身体中を巡る血の音を疎ましく思いながらも聴覚を働かせた。同時に、頭をフル回転させる。

 行き止まりの箇所を思い出し、選んではいけない道を除外。一度は選択肢から外した道を、祈るような気持ちで進んだ。

 ニックが現れたルートだけがガーデンルームに続く道なら、まずは逃げることだけを考えねば。もしも他にも正解にたどり着ける経路があるなら、それに賭ける。

 慎重に進みながらも、感覚を澄ませ。

(……あった!)

 ガラスでできたガーデンルーム、白く塗装された鉄の骨組と透明な壁。生垣に阻まれることなく、あともう少し走れば辿り着く場所にそれが見えた。もう一息で、標的のもとへ――。

 複雑に入り組んだ迷い路の間を、風が吹き抜けた。

 隙間なく葉を茂らせた生垣は頑丈で、それでも寒風に緑は揺れて。


「……っ!」

 エリザベスは瞬時に身を翻した。それは直感だった。

 ガーデンルームの正面、入り口前にニックが躍り出る。

 相手を察知した瞬間の動きは、姿を確認する寸前、直感に突き動かされたエリザベスの方が早かった。

 入り口に飛び込もうとしていたエリザベスは、慌てて進路変更をした。

 ガーデンルームの背後に回って、建物の骨組に飛びつく。つるりとしたガラスにつま先を滑らせながらも、骨組に足をかけて屋根によじ登った。

「この……!」

 すんでのところでエリザベスを引きずり下ろしそこなったニックは、自らも骨組に手を掛ける。エリザベスと比べて力が段違いに強いニックは、ほぼ腕力だけで屋根の上に上半身までを引き上げた。

「これ以上は、来たら駄目よ」

 強い風が吹いて、エリザベスは風音に負けないように声を張る。一瞬身を震わせ、体にマントを巻き付けた。

「ガラスの屋根じゃ、二人分の体重は支えられない。私を取り押さえる前に大惨事になるよ」

 ガーデンルームが、軋む音を響かせる。屋根を支える骨組は、採光のためか少ない本数で組まれていた。

「そんな脅しは」

 怯むことなく、片膝をついて屋根に乗り上げるニック。エリザベスは屈むような姿勢をとりながら、手元のスカーフを振った。ぱしん、と嫌な音がして。


「脅しじゃないったら」

 包まれた小石が、足元のガラスにひびを入れた。

 にじり寄ろうとしていたニックが身を固くした。二人の間は今や二歩分程度しかないが、ニックは距離を詰めることができずにいる。ただ強い視線から放たれる気迫だけは、エリザベスにもひしひしと伝わるのだった。

「子どもは」

 体勢はそのまま、ニックが言った。

「先日、お前が押し入った工房にいた、あの子どもはどうした?」

 コリンのことだ。

 ダニエルとの会話を思い出す。ニックはコリンのことを気にかけていたと。

 彼がコリンを気にしているのは、事件の参考人であるから。ニックの考えでは、コリンはエリザベスの協力者とは限らないと結論づけられている。事情聴取はするだろうけれど、ニックはきっとコリンを尊重してくれる。

(いい人だもの)

 きっと事情を聞くだけでは終わらず、今後のコリンのことを考えてくれるはず。だからこそこの人は、コリンがどうなったかを案じているのだ。

「……あの子は今、私と一緒にいる」

「お前と?」

「そう。私があのひどい場所から、あの子を盗み出した」

 その後は、手を離したのだと言っても良かった。

 どこへなりとも行けと、追い払ったのだと。あの子は丘の森へ置いて行ったから、現在の消息など知らないと。コリンを屋根裏から自由にしただけで、その後どうなったかは己のあずかり知らぬことだと、そう、嘘を吐いたって。それでも、良かったのに。

「私はあの子を連れて行って、そのまま今に至るまで一緒に過ごしている」

 コリンがどうなったかわからないままでは、ニックはいつまでだって探し続けそうだったから。だから、誤魔化すことはできなかった。

(いつまでもコリンを探し回られて、エリザベスの正体にまで近づかれては困るし)

 そう思う反面、コリンがエリザベスのもとにいることをニックが善しとしなければ、嗅ぎまわられる危険性は変わらないどころか増したのかもしれない。


「私のもとでは、好きなように過ごさせている。どこかに売り払ったりとか、酷いことしたりとか、絶対にしていない。誓ってもいい」

 釈明のように言葉を並べる。ニックに何を訴えたいのか、どんな反応を期待しているのか、自分でもわからないけれど。

「それを信じろっていうのか」

 そう願ってしまったのだろうか。

 泥をかぶったって、後ろ指をさされたって、いいと思っているはずなのに。

「……俺が捕まえた奴らはな。どうしようもなく堕落して、盗んだり騙したりだとか。醜い欲望や嫉妬、信じられないくらいどす黒くて悪いものに頭ん中を支配されて、人を傷つけた連中がいた」

 軋む音がした。足元のガラスか、それとも。

「だけど罪を犯した人間の中にも、子どもや家族を大事にしている者はいた。お前だって本当に、あの少年を大事にしているのかもしれない」

 ひびの入った足元。きしきしと鳴るガラスと、身の内で何かが軋むような感覚。

「お前が罪を犯すことと、子どもに優しくすることは全くの別の話だ。怪盗エリザベス」

 膝立ちのまま、エリザベスに見下ろされる格好なのに。それでも何者にも屈しない強さで、ニックは堂々と顔を上げる。 


「……ごもっともね。あなた方にとっては、星蜥蜴だって憎きかたきだったでしょうけど。私には優しいパパだった」

 エリザベスは跳び上がった。

 腹をくくるのも、崩壊も一瞬。両足の硬い靴底が、ガラスの屋根を突き破った。ガシャガシャと耳に刺さる音、振り注ぐガラス片は鳴り響く。衝撃は連動して、己の足元だけでなくニックの乗っていたガラス屋根も崩れ落ちていった。

 落ちたガラス片を踏みしめながら、エリザベスはガーデンルーム内に着地した。体を保護するために巻き付けていたマントから、ガラス片を振り落とす。

(ニックは)

『硝子の蜃気楼』を確認するより先に、ニックの身を案じてしまったエリザベスは、視野が狭くなっていたのだろう。

「派手なご登場だ」

 だから声の主が標的のそばにいたにも関わらず、エリザネスはその者から話しかけられるまで気づかなかった。

「こんばんわ、怪盗エリザベス。僕の庭へようこそ」







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