迷いの庭 ‐Ⅳ
「今度の標的は絵画か……。宗教画で、『神の都』、ね」
手元の資料を暖炉の前で眺めながら、リザは眉を寄せた。
「所有者に特に怪しいところはなさそうだけど、『神の都』ってエレクトレイ市内の教会に飾ってある絵だよね。誰もが日常的に目にしている聖堂内の絵画が、個人の手に入るわけがないのに。贋作を承知の上で購入したってことかな」
「『神の都』は、僕もうんと小さい頃に何度も見に行ったよ」
リザの膝に広げられた資料を覗き込んで、コリンが言った。
ソファや椅子より床の絨毯の上に直接座るのを好むコリンは、リザの膝に縋りつくような姿勢で資料を見つめる。
「お父さんと一緒に。お父さんが生きていた頃は、美術館や画廊や教会にたくさん行ったの。お父さんは画家だったから、絵を描くことも、お父さんに教えてもらったんだ」
「そっか、パパが画家さんだったんだ。それでコリンもあんなに絵が上手なの」
年齢を考えたら、上手の域を超えているけれど。
父親がどのような教育を施していたかは定かではないが、有り体に言ってしまえばコリンは間違いなく天才だ。芸術の神から愛された存在であるのだと、リザは本気で思っている。
「僕はちから……えっと、念写? を使っているから、ずるいんだけど。でも念写でキャンバスに絵を写し取っても、それこそ写真みたいになっちゃうんだ。画材の質感とか筆のタッチなんかは再現できないから、僕が手を加えてた」
「あのクソ親方は、念写能力もコリンの純粋な才能も、両方利用したら一級品の贋作が生産できるって企んだわけね」
「念写で下書きを作るのは、もともとは練習のためだけだったんだけど……。あとは僕が、今までに鑑賞してきた絵画を全部記憶してるから、親方はそれも使えると思ったみたい」
「今までに見てきた絵画、全部覚えてるの?」
驚愕に思わず前のめりになったリザと顔が接近して、コリンは赤面しながらのけぞった。
「うん。贋作を描こうにもずっと屋根裏にいたら、元になる絵画を直接見に行ないわけでしょ。でも僕の頭には、たくさんの絵画が入ってるから」
それでずっと閉じ込めて、学習する機会すら与えないで、道具のようにいいように使っていたということか。
「コリンは凄いのね」
見上げてくるコリンの頭を、リザはそっと撫でた。
コリンは素晴らしい才能や、人にはない力を持った子だ。けれどそれを、特別な能力に恵まれたと受け止めることができない環境に、長い間置かれていたのだ。彼にとって、それはずっと恵みにはならなかった。
「パパとお別れしたのはいつ?」
「お父さんは僕が七歳の時に死んじゃった。お母さんはもっと前に死んでしまっていたし、すぐに親方に連れてかれて、あとはずっと屋根裏暮らし」
コリンは満で十一歳になるという。屋根裏に閉じ込められていた間、あまり正確に年月を把握できなかったようなので概算だが、大体三、四年は、暗闇の中での生活を強いられていたことになる。
「あのね、リザ。僕、エリザベスに盗まれて良かったよ」
けれど連れ出しただけだ。たったそれだけのこと。
自分が父から愛情を注いでもらったように、リザもコリンを大切にしているつもりだけど。適切な教育も、彼の才能の活かし方も本当は何一つわからないし、うまくやれるかもわからない。
「私もコリンと一緒に過ごせて、嬉しいよ」
それでも今、笑って過ごせるなら。
「だから僕、リザのためにできること、何かしたい」
「コリンはそんなこと、気にしなくていいの」
ただ少しでも平穏に暮らせるなら、それでいいとリザは思った。
かの屋敷の庭は、冬でも草木が息づいている。
寒風の中でも身を寄せあい、可憐に咲くヒースの花。花や葉を落とした低木の枝が赤く色づき、まるで燃え立つ炎が踊るように枝先を広げる。ほわほわとした
敷地を囲む目隠しの生垣の向こうでは、季節問わず草木が伸び伸びとしている――。
「なっ、んっ、でっ、よおお!」
まっさらな芝の庭を、エリザベスは必死になって駆け抜けていた。
真冬でも生命力に溢れたこの屋敷の庭の植物たちは、庭を隙間なく埋め、通路以外の地を覆いつくさんばかりだったはずなのに。
「全部、刈っちゃってるじゃないの!」
標的である屋敷は時折、庭を市民に公開していて、わざわざダニエルから情報を仕入れるまでもなかった。庭の素晴らしさは街では有名で、エリザベスだって見学に来たことがあるくらいだったのだから。
「なんでこんなに、様変わりしちゃってるの!」
かくれんぼをしたら、植物の影や枝葉の中に、いくらでも身を隠すことができるだろう。
猫や犬が迷い込んだら、見つけるのは至難だろう。
そんな笑い話が交わされるくらい、多種多様な植栽が建物までの広い空間を埋めているはずだったのだが。
「全然、身を隠せる場所がないいい」
いざ生垣を超えてみたら、エリザベスがひそめるような木陰や草むらなど一掃されていたのだった。
寂しくなった庭を吹き渡る風と共に、高いホイッスルの音が響く。
怪盗はコソ泥ではないのかもしれないけれど、それでも警察をやり過ごさねばならない時だってある。己のタイミングで名乗る暇すらなく、エリザベスは追いかけまわされる羽目に陥った。
「とっ!」
植物の根元に足を取られそうになって、エリザベスは慌てて体勢を立て直す。
根こそぎ植物を引っこ抜いたわけでもないようで、地面に残った草木の名残に注意しないと、たびたびつまずきそうになるのだった。
とにかく、標的のある建物まで走り抜く。
一般公開されているエリアは一部で、エリザベスもその先は手に入れた図面でしか知らない。それによると、奥にはまた趣の違う庭園があるという。
追ってくる者は二人。庭のあちこちに警備がいるだろうから、まだ集まってくる可能性がある。そう考えた矢先、前方に三人の警察官が待ち構えているのが見えた。そしてさらにその背後に――。
(あそこだ)
制止を要求する前方三人の後ろに、緑の塊が見えた。敷地を囲む生垣でなく、庭の中に作られたガーデンルームを囲む生垣だ。
大人の背丈くらいはありそうな、緑の壁。走りながら視線だけで生垣の切れ目を探すが見つからない。ガーデンルームに向かうための入り口があったとして、そこにも警備のものが配置されているだろう。となれば。
(ちょっと無茶な気もするけど)
直線上にいる一人との距離を目視で測る。繰り出す足の歩数、走る速度はこのまま。体は屈強だが、警察官の身長は恐らくエリザベスより少し高いくらい。
首元からスカーフを外すと、警察官の頭上に狙いを定めて石を放った。飛んでくる石粒をよけて、目前の警察官が体を前傾させる。そのままエリザベスは、警察官の両肩を掴んだ。
「いち、にの」
両足を思いきり踏み込んで飛び上がる。警察官の両肩を押さえつけるように体を持ち上げると、エリザベスの重さに耐えかねた土台の彼はさらに体を前のめりにさせた。
「さんっ!」
警察官の頭上を、馬飛びをするようにして飛び越える。さらに背中を足場代わりに踏みつけて、生垣の向こう側へと飛び降りた。
「う、ひゃっ!」
生垣の枝にマントをひっかけて、わずかに着地が乱れる。
「ごめんね、枝、折れてないよね」
マントの端をそっと外しながら、物言わぬ緑に話しかけた。越えてきた生垣の向こうから、エリザベスを捕り逃した混乱の声が聞こえてくる。彼らがこちら側になだれ込んで来る前に、急いでガーデンルームに向かわねば。
「……なんだけど」
エリザベスはうんざりと己を囲む緑を見やる。
「壁を越えたら、また壁でしたなんてね」
着地地点は均された小道。延々と続く緑の壁は越えてきた生垣だけでなくて、内側にもまた別の生垣があった。植木は小道を両側から挟むように、隙間なく並んでいる。生垣の途切れたところからガーデンルームに続いていそうな道へ進んだら、そこにはまた緑が迫って、行く手を狭めていた。植木の壁に囲まれた左右と正面に枝分かれした道の、どれを選び取るか。
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます