迷いの庭 ‐Ⅲ
扉を開けて第一声、リザは瞬間的に扉を閉めそうになった。
「どうも、おはようございます。良い朝ですね」
「今、あなたの顔を見たこの瞬間、一瞬で良い朝じゃなくなったんだけど?」
「相変わらずつれないなあ」
朝から訪問してきた情報屋は、帽子を外して胸に抱える。完全に上がり込む姿勢だ。
「今、あなたに依頼することは何もないです。帰って下さいます?」
「ああ、パンを焼いたいい匂いがしますね。朝食中にお邪魔してすみませんねえ。良いなあ、おいしい朝ごはん。うちのサンドイッチ、まっずいからあれ」
「邪魔だって自覚してるんですね、サンドイッチがまずいってわかってるなら努力しなさい、ずかずかと上がり込むな帰れ!」
家主をすり抜けて階段を昇っていく情報屋を、リザは早口でまくしたてながら追いかけた。構わず情報屋が入り込んだ居間では、入り口から後退したコリンが、椅子の背に回って身を守るようにしていた。
「おや、怪盗エリザベスに盗まれた、お宝くんじゃないですか。どうもごきげんよう、その後調子はいかがですか」
「お気遣いどうも!」
当人が応答する間もなく、リザはコリンと情報屋の間に割って入る。
「二人でつつがなく暮らしておりますので、ご心配なさらず」
「ぴりぴりしちゃって、母猫みたいだ」
毛を逆立てそうなリザに構う様子もなく、情報屋は悠々と暖炉の前のソファに腰掛けた。
今日の彼は街中のどこにでもいる紳士の装いで、一般庶民の住む家を訪ねる者として全く違和感のないスタイルだ。これが男の素なのか、素顔とは別の姿を作って現れたのかはわからない。
「誰?」
リザの背に張り付きながら、コリンが問うた。
「情報屋の、ダニエルって人。コリンは関わらなくていいよ」
「俺が情報提供していなかったら、その子はここにいないんですけど?」
リザは吐き出しかけた、追撃の言葉を飲み込む。
「……そのことは、感謝してる」
もし情報屋――ダニエルに、何か目的があったのだとしても。コリンをあの劣悪な環境から救い出せたのは、彼の情報があったからだ。
「まあ俺だって、小さな子どもが虐げられているなんて胸が痛みますから。いや本当に、クソみたいな子ども時代を送るのはつらいものですよ」
ダニエルの表情がかすかに陰る。それが恵まれない者への憐みなのか、本人が抱えるなにがしかの過去に起因するのか。はたまた、台詞に合わせて作った表情なのかは知れないが。
「コリンの情報は、無償提供ってことだったじゃない。もう果たす義理はないでしょ」
憂いの表情一つで誑かされてたまるかと、リザはすげなく切り捨てた。
「それはその通り。追加の情報料をいただきに来たわけではありません」
ダニエルはソファを立つと、リザの背後のコリンに笑いかけた。
「俺は囚われの贋作画家に興味があって、怪盗エリザベスさんに情報提供したんですよ」
「なによ、それ」
ダニエルはリザに構わず、目線を合わせるように少し体を曲げてコリンに尋ねる。
「コリンくん、君はどのように贋作を描いていたんですか?」
ダニエルの穏やかな口調と優し気な笑顔に、コリンが顔を出した。
「ちょっと。あの工房でのことなんて、思い出させないであげてよ」
言葉、表情、すべてが演技だとは言わないけれど。相手の懐に入り込む術を心得ている男を、リザは心から信頼しきれない。
「……頭の中に、描きたい絵を思い浮かべて」
けれどリザの抵抗をよそに、コリンはぽつりぽつりと語り始めた。つらい話は無理に聞きだすまいと思っているリザも、関心を抱くのは止められず耳を傾ける。
「それからキャンバスを見つめて、浮かべって、思うと。絵が浮かんでくるよ」
拙く、けれど真剣にコリンは言った。
「浮かぶって……写真の現像みたいなこと? 詳しくないけど、あれも専用の紙に撮影したものが浮かび上がってくるんだよね」
「念写のようなものでしょうね」
ダニエルの言葉に、リザとコリン揃って瞬く。
「ねんしゃ?」
「頭に思い浮かべて、意志の力だけで紙に画像を映し出す能力のことです」
「鉛筆や絵の具で描くんじゃなくて?」
「写真は写真機が必要ですし、現像するには薬品を使います。けれど念写はそういった道具を一切使わず、紙に画像を焼き付けることができるという――そういう能力をね、心霊研究やら降霊会やらに熱心な連中は信じているんですよ」
「まさかコリンを、そんなオカルト連中のところに売り払うつもりじゃないでしょうね」
思わずコリンを抱きしめて後ずされば、ダニエルは笑いながら手をひらひらとさせた。
「まさか。だいたい連中はインチキですしね。まあでも、君のお父上も、本物の魔法使いだったわけですし? ジャン以外にも、不思議な力を使える人間もいるでしょう」
「だからコリンのその不思議な力を狙って、よからぬ連中に」
「そんな、もったいない。それは怪しげな連中の趣味やら研究を満足させるために使う力じゃないですよ」
じゃあなにが目的なのかと、リザは睨みつける。
「コリンくんの力……念写と定義しておきましょう。念写は絵画限定ですか? 例えば風景や人物や建物や、写真機もなしに記録できるなら、こんなに役に立つことはない。俺の商売柄、とても魅力的だ」
「……そういうこと」
リザはコリンを抱きしめる腕に、さらに力を込める。
「コリンの能力を利用して、あの工房主は荒稼ぎをしていた。あんたもこの子を利用しようっていうの?」
「人聞きの悪いこと言わないで下さいよ。あんなふうに支配して、こき使おうって言うんじゃないんだ。必要な時に協力をお願いしたり、場合によっては報酬を用意したっていい。それに俺の集める情報は、あなたにとっても益になるでしょう?」
「……リザのために、なること?」
リザの腕の中から身を乗り出して、コリンはダニエルに尋ねた。光の灯った幼い瞳に、ダニエルはにっこりと笑いかける。
「リザさんは俺のお得意さんなので。俺の収集する情報は、怪盗エリザベスのお仕事に役立っているんですよ。それに提供する情報は有料ですが、コリンくんが手伝ってくれれば、報酬として無償提供したっていい」
「だったら、僕……」
「やめて」
コリンの言葉を遮って、リザは言った。強い声と目つきで、コリンとダニエルの会話を制止する。
「この子にこれ以上、後ろ暗い仕事をさせたくないの。情報が必要ならお金は払う」
「稼ぎもない君が?」
「払えなくなったら、諦める。他の顧客を探してちょうだい」
「コリン君には家賃代わりに、それくらいさせたっていいと思うけどなあ」
リザのブラウスを掴む小さな手に力がこもった。寄る辺を求める幼い手から、伝わる不安。
「私はパパに、そんなもの要求されたことなんてない」
「ああ、でも。やり方は下手かもしれないけど、君の場合はコリン君に直接、情報収集を頼むという手段もあるのか。自分で彼を使うという手が……」
「使うなんて言い方はやめて!」
リザの激昂に、腕の中のコリンが跳ねる。
「人間は道具じゃないの。ふざけないで」
そんな意思のないものになるために、生まれるんじゃない。
抵抗する意思も心も奪われた幼子の姿、もう二度とあんな目には。
「そんなに守りたいなら、コリン君の身柄は警察に預ければよかったじゃないですか」
対峙するダニエルは、貼り付けたままの笑顔で言った。
「泥棒という自分の立場をわかっていて、連れてきたくせに」
笑いながら、痛いところを突く。罪悪感を材料に取り込まれてなるものかと、リザは己の言い分を述べた。
「警察に保護されたからと言って、どこまでも手厚く面倒見てくれるとは限らないでしょう」
「そうですか? サンドイッチのお客さん、ニックさんね。あの方、現場で行方をくらました少年のことを、ずいぶん気にかけていましたよ」
「ニックさんが……」
朝に出会った、彼の痛々しい姿が脳裏に蘇る。増していく後ろめたさに心が揺らぐのが、自分でもわかった。
「僕、お巡りさんじゃなくて、リザが良いよ」
だからコリンがそう訴えて見上げてきた時。情けないけれど、リザの視界は滲みそうになったのだった。
この子が自ら選んでくれたのだから、間違いじゃない。
「……どうにも旗色が悪そうだ」
わざとらしく息を吐いて、ダニエルは両手を掲げる。降参を示すように、手のひらをひらひらとさせた。
「今日のところは、ひとまずお暇しましょう。これに懲りず、今後ともぜひご贔屓に」
紳士らしい所作で挨拶すると、ダニエルは静かに部屋から退室する。その背中を玄関まで見送らずに、リザはコリンとただ二人、身を寄せ合った。
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