迷いの庭 ‐Ⅱ

 会話が途切れて訪れた沈黙に、帽子のつばを上げる。顔を上げたら、ニックと目が合った。赤くなったのは、決まり悪いからか。ニックは切り替えるように咳払いをしたが。

「……って」

 よろめいて、ニックは自分の腰を支えた。

「無理なさらないで、ゆっくりお休みになればいいのに。寒いですし、朝の散歩は控えたらどうですか」

「散歩もリハビリなので」

 無理にでも背筋を伸ばして歩く真面目な彼。それで悪化させなければいいのだけれどと、本心から思う。

「完全な現場復帰ももうすぐです。いい加減、休み飽きましたよ」

「ああ。今日がちょうどお仕事がお休みだったわけじゃないんですね。療養休暇中でしたの」

「署には折を見て顔を出していましたが、邪魔だって追い返されることもしばしばで」

「もうすぐ通勤時間帯なのに公園にいるから……って今、何時?」

 リザは慌てて、懐の懐中時計に手を伸ばす。

「もうこんな時間! お喋りしすぎちゃった」

 ケープの内ポケットへ時計を戻そうとまごついていたら、抱えていたパンの包みを取り落としそうになった。それをニックが、素早く支える。

「おっと」

「あ、ありがとうございます。危うく朝食抜きになるところでしたわ」

「朝食用のパンですか?」

 ニックは鼻をかすかに鳴らした。

「ええ。サンドイッチにします」

「ああ、それは良いな。俺もよく街商から、朝食用のサンドイッチを買うのですが。それがまず……口に合わなくて」

「もしかして、雑貨屋さんの近くでお店を出している?」

 商人のふりをした情報屋は言っていた。警察官御用達だと。

「ご存じですか」


「まっずいですよね、あそこ!」

 あのサンドイッチのひどさを共有できる喜びに、リザは思わず声を上げる。勢い込んだリザに、ニックは一瞬ぽかんとしたが。

「はい。ひどいもんです」

 結局は二人で笑い合った。

「さて、いい加減に帰らないと。家族を待たせていますので」

「ああ、お父様ですね」

 リザは無言で微笑んだ。

 父の仕事を手伝っているといったからには、ニックはリザの父親が存命だと思っているだろう。

「それでは、また。ごきげんよう」

「あ」

「なにか?」

「あ、いや。その」

 歯切れの悪いもの言いだった。ニックは一瞬ためらうように視線をそらして、また、こちらを見て。

「名前を聞いても、いいですか」

「……え?」

 もしかして身元確認。何か不審に思われただろうか。リザは身を固くする。

「えっと、変な意味はなくてですね。人間関係の基本かと思って」

 関係と呼べるほどのものを、リザとニックは築いているのだろうか。こうして立ち止まって挨拶をして、お喋りをして。

「あ、名乗るのなら自分からですよね。俺はニック・ドーソンと言います」

 それは知っている。一方的に。

「……リザ・ブライトマンです」

 だから名乗ることにした。フェアでいられるなんて思っていないけれど、後ろめたさは少ないほうが良い。

「リザさん、ですか」

 わずかに寄せた眉に、ニックが何を思い起こしたかは想像に難くない。『リザ』だって、目の前の警察官が何者を追っているかは当然知っている。

「ええ。どうぞよろしく、ニックさん」

 けれど何も触れず、二人はここで初めてお互いの名を知ったことになるのだった。

 



「名乗っちゃったな……」

 ニックと別れてから、リザは自分の言動挙動をぼんやり振り返った。

(でもエリザベスなんて、ありふれた名前だし)

 偽名はいくつか用意がある。名前なんて、元々持っていなかった身だけれど。

 それでも『リザ・ブライトマン』という名を、偽物だとは思わない。

 ブライトマンは、父の名前。リザという名にも意味はある。

 だからニックに、本名をそのまま名乗ったことになる。

(どうせ戸籍もないから、名前から身元をあたることもできないし)

 家に帰りついて、鍵を開錠しながら思考を続ける。

 そもそも戸籍を探るほど怪しまれるようなことになったら、本格的に身を隠さなくちゃならない。現状そこまで追い詰められているわけでなし、ならば名乗るくらいは構わないだろう。

 そう結論づけたところで、かちゃんと音がして玄関扉のロックが外れた。

「ただいまー」

 帰宅の挨拶をしながら家に入るのは良いものだ。待っている人がいるということだから。

「ごめんね、遅くなっちゃって」

 弾むように階段を昇る。食事をする二階の居間が温まっているから、コリンはそこでリザの帰りを待っているだろう。

「……あれ?」

 二階はもぬけの殻だった。

 石炭の爆ぜる音だけがして、暖炉が熱気除けの衝立を虚しく温めている。

「どこ行ったんだろ」

 三階の寝室を覗くも誰もいない。一階に降りて、とりあえずパンを置こうとキッチンへ向かった。


「コリン?」

 パンを乗せた作業テーブルの足元で、丸まった影がびくりとはねた。そっと近づいて、リザは影のそばにしゃがみこむ。

「どうしたの、具合でも悪い?」

 話しかけられた影――コリンは、恐る恐る顔を上げた。寄り添うリザの顔と床を、おろおろと見比べる。

「ご、ごめんなさい」

「なあに?」

 コリンの足元を覗き込む。床の上では生卵が三つ割れて、無残な姿になり果てていた。

「あらら」

 床にでろりと広がる、黄身と白身。砕けた殻から漂う悲壮感。

「これはもう……どうしようも」

「ごめんなさい。おこ、怒らないで」

 シャツを掴んで震える手は汚れている。べたべたになった手は、何とかして卵を救おうとしたのだろう。

「テーブルを、拭いておこうと思ったんだ。それで、卵の籠が置いてあるところを拭こうとしたら、落として」

 今にも泣きだしそうな声で、コリンは言う。

「僕、リザに助けてもらって。面倒、見てもらってばっかりだから。だから何かできることはないかなって、何かやらなくちゃって、思ったんだけど」

 リザはコリンの頭を抱き寄せる。


「お手伝いをしてくれようとしたのね。ありがとう」

「……怒らないの?」

「わざとじゃないんでしょう? 落ちちゃったものは仕方ないもの」

 大丈夫、大丈夫と繰り返して、リザは卵の殻を籠に拾った。

「だけどキッチンは刃物とか火とか、危ないものもたくさんあるから。怪我したりしないように、道具の使い方や物の場所、料理なんかも一緒に覚えてきましょうね」

 布巾で小さな手を拭ってやる。そのまま床の卵もふき取って、コリンを促して立ち上がった。

「今日は簡単に、マーマレードサンドにしましょうか」

 あとは昨夜の残りのスープと、紅茶。オーブンにパンを放り込んで、リザは食品棚のマーマレードを手に取った。

「塗るだけだから、コリンも手伝ってね」

 オレンジマーマレードが詰まったガラス瓶を、コリンは丸い瞳でじっと見つめる。

「それ、リザのブローチみたい」

「マーマレードが? そうね、琥珀に似てるかも」

 リザは胸元の、小さな蜥蜴が閉じ込められた石を見つめる。

「でも、マーマレードに蜥蜴や虫が入っていたら嫌だけど」

「ブローチの蜥蜴は良いの?」

「琥珀は食べ物じゃないもの。それにこれはパパの形見だから、気持ち悪いなんて思わないよ」

 いつも父の胸元に輝いていた飴色の石は、星の輝きをしている。

「パパが大事にしていたものだから、私も大切にしてる」

「リザのお父さんも、怪盗だった人なんだよね」

「うん。覚えててくれたんだ」

「だって怪盗星蜥蜴のお話、いっぱい聞いたもの」

 最近ようやく落ち着いたものの、この家に連れてきたばかりの頃のコリンはよく眠れていないようだった。なかなか寝付けずに夜の中で震えている子どもに、リザは寝物語を聞かせてやることにした。


「……夜中まで一緒にいてもらって、ごめんなさい」

 コリンは恥じ入るように俯いた。

「気にしない、気にしない。少しづつ慣れていけばいいんだよ」

 過酷な日々を送ってきたコリンである。身も心も育つのは、ゆっくりでいい。

「誰だって、眠れない夜はあるわ。私だってパパと暮らすようになった初めの頃はまだ慣れなくて、怖くて、よく泣いてた。一緒のお布団に入ってもらったりしたもの」

 まだぬくもりが信じられなかった頃。何かのはずみで、かつての生活に戻ってしまうのではないと怯えていた頃。そんなに遠い過去のことではないけれど、父との生活を失ってしまった今ではすべてが懐かしい。

「図体のでかい娘と一緒にベッドで眠るのは、パパも大変だったと思うわ」

 リザの言葉に、コリンは目をぱちぱちさせる。

「リザは星蜥蜴の娘になった時、まだ小さかったんじゃないの?」

 十代半ばほどの少女であるリザは、小柄とはいえそろそろ成人女性にも並ぶ身長である。この体格だと、一人用のベッドで成人男性と眠るには窮屈だ。

「さ、パンが焼けたからマーマレードを塗って。朝ごはんにしましょう」

 質問を笑顔で流して、リザはコリンにスプーンを手渡した。


 香ばしく焼き上がったパンにたっぷりとマーマレードを挟んで頬張れば、爽やかな甘みと果皮のほのかな苦みが口に広がった。

「たまごサンドじゃなくて、マーマレードサンドにして正解ね」

 なにがどう、正しいわけでもないけれど。今日はマーマレードの気分だったとリザが言えば、コリンは安心したように笑った。

 野菜スープをゆっくり飲み干すコリンを横目に、窓の外を眺める。寒風が葉を落とした木の枝を揺らすのを見て、今日は温かい部屋で一日過ごそうかと考えていると。

「……あれ、誰か来た?」

 玄関から、扉をノックする音が聞こえてきた。

 居間の入り口からそっと階下を見下ろすコリンを残して、リザは階段を駆け下りる。

「げ」







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