迷いの庭

迷いの庭 ‐Ⅰ

 寒風にさらされた鼻先が冷たくて、リザは小さく鼻を鳴らした。

 厚い生地のケープは立て襟で、首元までしっかり覆ってくれる。けれどフードまではついていなくて、淑女らしくリボンで飾った帽子を被っていた。

 平たいただの飾りみたいな帽子じゃなくて、頭をすっぽり覆ってしまえればいいのに。痛いほどに冷えてきた耳を手で覆おうとしても、紙袋を抱えたリザの両手はふさがっている。

「コリンを外に連れ出してあげたいけど、ちょっと寒いかな」

 ずっと屋根裏に囚われていた子ども。

 リザとともに暮らすようになってひと月ほど、顔色も良くなってだいぶ体つきもしっかりしてきた。相変わらず意思表示は少ないけれど、緊張は徐々にほぐれてきたように思う。

 その間に少しずつ、身の回りの物は一通り、洋服も困らないくらいは買い揃えたけれど。さてそろそろ散歩に出かけるくらいはと思ったところで、防寒具の必要性に思い至った。

「パパのコートを、子ども用に仕立て直してもいいんだけど……」

 父は背が高かったから、子どもの背丈に合わせて作り変えるとなると、大幅に改造することになるだろう。

 それは惜しいと、どうしても思ってしまう。

 いつまでも箪笥にしまい込んでいたって、もう誰も袖を通すことはないとわかっている。どんなに手入れをして、虫干しをしても、時間の経過とともに衣服は傷んでいく。コリンが着たら着たで、やっぱり消耗していくし寸法が合わなくなればそれまでだろう。だけど箪笥の肥やしになるくらいなら、活用した方がよほどいい。

(わかってるけど)

 いつまでも、しがみついていては良くないって。

 それでも父との思い出に、鋏を入れる勇気は出なかった。

 紙袋を抱えた両腕につい力がこもってしまって、リザは慌てて腕の緊張を緩める。分厚い防寒具越しでは熱は伝わらないけれど、紙袋には焼きたてのパンが包まれていた。冷たくなった鼻を、芳しい香りがくすぐる。

 パンは家で温め直せばいいからと、のんびり公園を散歩してから帰ることも今まではあったけど。

「コリンがお腹を空かせて待っているだろうな。早く帰って朝食にしようっと」

 公園には、また二人で遊びに来ればいい。

 ……とは、思ったのだけれど。


 葉の落ちた銀杏並木を、背を伸ばして歩く人影がひとつ。

 公園を囲む柵の向こうに、ニックを見かけた。

 梯子ごと森の暗がりの中に消えていった彼のことを、気にしていなかったかといえば噓になるし。

 心の中でコリンに謝ってから、リザは公園の入り口を潜った。

「おはようございます」

 リザと歩幅が違う彼の背中は、追いつくのが大変だと思ったのに。あっさり背後について声をかけたら、ニックはぎこちない動きで振り返った。

「どうも、おはよう、ございます」

 いつもの快活さを感じない。心なしか、顔がこわばっているような。

「……朝の忙しい時間に、邪魔してしまったかしら」

「いえっ! 決してそのようなことはっ」

 慌てて取り繕うように声を上げたニックが、さらに顔をひきつらせた。警察官だというのに、その挙動不審ぶりにリザが首を傾げたら、ニックは大きく息を吐いた。

「腰と背中を、やってしまいまして……」

「あら、まあ」

 口からでたのは、驚きでなく同情の声。原因なんてわかりきっていたし、それを承知でも痛ましいとは思ったので。

「まだお若いのに。魔女の一撃ぎっくり腰ですか?」

 リザは素知らぬふりで問いを投げかけた。

「いえ。毎度お恥ずかしい限りなのですが、仕事で……」

 森の中の小屋で、梯子を掴んだまま背中から落下していったニックは、その時に腰と背中を強打したらしい。


「新聞で読みましたけれど、なんでもエリザベスは弟子だか子分だかを連れていたとか」

 新聞や雑誌の傾向によっては売れればそれでいいのだと、あることないこと何でも書き立てる。怪盗エリザベスを義賊だとか権威と戦う者だとか、英雄寄りに書いてくれるのはいいけれど。記者たちは怪盗事件を、まるで娯楽小説のように描いてしまう。

「けれど警察の発表だと、エリザベスは盗みに入った画商で、奉公人の子どもを脅して警察官を攻撃させたんですってね」

 一方で情報源の確かな信頼できるとされるメディアであっても、必ずしも正確な情報を伝えているとも限らない。それは怪盗エリザベスが、周囲を煙に巻くことに成功しているともいえるのだが。『リザ』のような何も知らぬ庶民は、情報に振り回されることになるのだ。

 ニックが何を真実とするかも、一市民からは知りようがなかった。

「ああ……」

 ニックが苦々しい顔をした。

 夜の森に響いた、ニックの叫びが耳に蘇る。

 エリザベスが幼子を使って警察を油断させた。そうニックが解釈しても、当然の状況だろう。真実なんて、わかってもらえるはずもない。

「先日の被害者宅は画商と言われていますが、実際には絵画の贋作工房でした。そこで少年が一人、劣悪な労働環境……というか、そもそも児童労働自体が本来なら規制対象なのですが。そんなことは知ったことじゃないという主人に使われて、虐げられていて」

「そんな可哀想な子を、エリザベスは脅したというの?」

 あなたは怯える子どもに優しく手をのべようとしたのに、その子はエリザベスを選んだから。

 きっとあくどい怪盗があの子を脅して、従わせたと思うのでしょう?


「……それは多分、間違いです」

 どう思われても、仕方のないことだと思っていたから。ニックにとっての真実がどうであれ、構うまいと思っていたのに。

「あの少年は、自分で決めて俺を突き飛ばしたんでしょう。工房の主人は、自分の抱える職人をエリザベスが誘拐しようとしたと主張しました。けれど少年の置かれた状況を考えれば、エリザベスが子どもを助け出したともとれる」

 リザは頷いた。大筋で、ニックの考えは事実に沿っていたので。

「工房主はしらを切っていますが、洗い出した関係者や情報提供者からは、少年を相当手酷く扱っていたとの証言がとれていまして」

「可哀想に」

 自然と憐みの言葉が、リザの口をついた。

 暗闇に囚われたあの子を、救い出してあげたかった。

 その行為がニックや警察に歪んで伝わっても、世間に誤解を与えても。

 あの子に平穏がもたらされるのなら、それで良い。それだけで良いはずだ。

「そこから救い出されたとなると、少年がエリザベスに恩義を感じて、逃亡の手助けをしたんだとしてもおかしくない。ただ単に混乱していて、思わず俺を攻撃してしまった可能性もありますが」

「警察が公に発表した内容と、違いますね」

「俺の勝手な見解です。俺も現場では頭に血が上りましたが、冷静に考えれば、あの時の状況は色々な解釈ができるんです」

 この直情的な警察官は自分が想像するより、ものを考える人なのかもしれない。

 そんなことを考えながら、リザは黙って続きを聞いた。

「それに今まで、エリザベスが他人を使って攻撃してきたことはありませんでした。いつだって、小さい体で一人立ち向かってきた」

 ニックは泉の方を見やった。目を細めて渋面を作ったのは、朝の光に輝く水面がまぶしかったからか、それとも。

「だからって、エリザベスが手荒に他人宅に押し入ったことや、我々警察を翻弄したことが許されるわけではありませんけど!」

「……そうですね」

 帽子のつばを傾けて、その陰でリザは苦笑いを浮かべる。

 ニックにも複雑な思い、折り合わない気持ちがあるのかもしれない。そんな風にとらえてしまうのは、都合がよすぎるだろうか。







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