指先の勇気 -Ⅵ
朝はいつ来るものなのか、よくわからなかった。
天窓がガラスだった頃はまだ良かった。窓から朝日が差し込んで、明るくなったら目を覚まして。けれど天窓をふさがれてからは、太陽と月の巡りは当てにできなくなってしまった。
親方が叩き起こしに来る前には、身支度を整えておかなければ。外界から切り離された部屋にも朝鳥のさえずりは聞こえてきたけど、目を開けることができなかった。
毎日、一日中部屋に籠って、偽物の絵をこしらえるばかり。だから体はさほどつらくないはずなのに、ベッドからはなかなか起き上がれない。
日がな一日ランタンの明かりだけで過ごす体は、正しい時を刻むことができずに狂っていく。体だけでなく、心の方も疲弊しているのだと思う。
かちゃりと音がして、床を鳴らす足音が近づいてくる。
ああ、起きないと。
怒鳴られて、ベッドから無理やり引きずり出されるのは嫌だ。下手をすれば朝ごはんにもありつけなくなってしまう。
だけど何かが、いつもと違う気がした。
近づいてくる足音は軽い。薄目を開けたら、部屋はほんのりと明るかった。さあっ、と音がして。
世界に光が満ちた。
「おはよう」
光の中から声がした。
明るく響くそれは、世界で一番美しい声をしている。そんなことを、夢見るような心地で思った。
「ゆっくり眠れた? まだ眠いなら、もう少し寝ててもいいよ」
窓辺でカーテンを束ねながらコリンに尋ねたのは、親方でなくて少女だった。コリンをあの暗い場所から盗み出してくれた人。
怪盗エリザベス。その、日差しの下での正体。
「リザ」
マントではなく、エプロンを身に着けて。フードを被せていない金の髪は、朝日にきらめいていた。
「起きるなら、すぐ朝ごはんにするからね。お腹すいたでしょう」
身を乗り出したら、ベッドが軋む音を立てた。破れ目のないマットと、温かい寝具。
ぼんやりと、昨夜のことを思い出す。
森を出て、途中何度か追いかけてくる警察――コリンが突き落とした警察官はさすがにいなかったけれど――をやり過ごして、丘を降りた。
そのまま街の中の、住宅地へと連れられて行き。ひしめくように小さな住宅が並ぶうちの一軒の家に、エリザベスとともに帰りついた。
明るくなった部屋の中を見回す。質素で狭いながらも整えられていて、怪盗のアジトってこんなものなのかと拍子抜けした。当の本人はアジトだとか、秘密の基地だとかは思っていないのかもしれない。ただの生活のための、普通の家なのだろう。
「今は私の古着しかなくて、申し訳ないんだけど。パパのじゃ大きすぎるしね」
そう言ってリザは、ベッドの上に畳んだ洋服を置いた。きちんと洗濯されたブラウスは、レースやフリルのないあっさりとしたもの。昨晩に着替えさせられた寝間着を脱いで、ブラウスに袖を通す。ズボンはさすがに用意がないのか、着てきたものをそのまま履いた。
「顔を洗いましょうね」
部屋の外に出たら階段があって、三階から二階を通り越し、一番下の階まで下っていった。
部屋を出たら、別の空間がある。外の世界がある。
そんな当たり前のことを、今更噛みしめた。
昨日の夜、体を洗ってもらった洗濯場があって、キッチンがあった。やかんが湯気を立てているキッチンは温かい。部屋中に甘く香ばしい香りが漂っている。
洗濯場で顔を洗って戻ると、リザが笑顔でコリンを振り返った。
「パンが焼けたよ。あ、パンはお店で買ったもので、温めただけなんだけどね」
リザは薪オーブンの鉄扉を開けて、天板を取り出した。薄切りのパンが、天板の上でこんがりと焼けている。
「ちょっと焼きすぎたかな。まあこれぐらいなら、良いでしょ」
素早い手つきで、リザはパンにバターを塗っていく。その上に具材を盛り付けると、もう一枚パンをのせてサンドイッチにした。
オーブンの上からやかんを下ろして、ポットに茶葉とお湯を注いで。
「さあ、朝ごはんにしましょう」
大きなお盆に朝食を載せて、二階へと運ぶ。
石炭が赤く爆ぜる小さな暖炉。心地よく温められた部屋に、清潔な白いクロスのかかったテーブル。窓からの日差しがさんさんと降り注ぐ席に着いて、自分の前に置かれたサンドイッチを眺める。
「食べていいんだよ。召し上がれ」
そう言ってリザは、まずは自分からサンドイッチにかじりついた。その様子を見て、コリンも一口、パンをかじる。
温かな焼き立てのパン。黴たような嫌な匂いもなく、ただ豊かな小麦の風味がした。柔らかなベーコンは、筋だらけで皮ばかりの低級品とは全く違うのだろう。それをカリカリに焼いて、チーズと一緒に挟んだサンドイッチ。ベーコンの油の旨味と、それと合わさったチーズの塩気が信じられないくらい美味しくて、コリンは夢中で食べ進めた。
こんなに温かでおいしい食事はどれくらいぶりか、食べたことがあるかもわからない。
「コリン?」
食事を飲み込んだ喉が痛い。
食べながら、涙が止まらなかった。
「胃がびっくりしちゃったかな。サンドイッチじゃなくて、スープにすればよかったね。作ろうか、それでパン粥にして」
「いい」
サンドイッチから口を離して、コリンは首を振る。
「これが良い。おいしい。一番、おいしい」
「そう? じゃあゆっくり噛んで、食べなさいね」
瞬いて、涙を乾かそうとする。太陽の光がまぶしかった。
ああ、朝が。
僕のところにも。朝が、来たんだ。
光の中で笑う少女の姿に、コリンはようやく朝の訪れを信じられたのだった。
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