指先の勇気 -Ⅴ

「このガキ!」

 背後からの怒声に、腕の中の少年がびくりとする。振り返ると、男が梯子を使って屋根を登ってきたところだった。

 少年が親方と呼んでいたのが、この男だろう。警察には見えないし。

(警察なら、彼が真っ先に駆け付けるでしょうしね)

 天敵に妙な信頼を抱きながら、エリザベスは男を睨みつける。

「……あんたがこの子を閉じ込めて、酷いことをしていたやつ?」

 どうということもない男だった。屈強な大男とか、野獣のような姿とかを想像してもいたけれど、背だってエリザベスより少し高い程度だ。

 いつも相手にしている警察官や、金持ちのいい家が雇う護衛みたいな迫力はない。それでも少年はかわいそうなほどに震えて、心も体も強く支配されていたことが分かった。

「親なし子を使ってやってるんだ」

 使うという物言いにこみ上げてくるものを飲み込んで、エリザベスは言った。

「あんな風に閉じ込めて、暴力ふるって、悪いことに加担させておきながら」

「子どものことはみんなそうやって、力づくで仕込むもんだろ」

 男が懐からナイフを取り出す。エリザベスもナイフ術は多少心得ているけれど、ふるうことに躊躇がないかと言えば、それは悪漢相手でも恐ろしかった。

 そして目の前の男は、刃物を振り回すことに抵抗はないだろう。エリザベスは背中に少年をかばう。男はいやらしい笑みを浮かべた。

「お前も悪ぅい大人に、星蜥蜴だったか? そういう風にして盗みを仕込まれたんだろう。泥棒女がよ!」

 その言葉に、エリザベスの血は瞬時に煮えた。

 パパは悪い大人なんかじゃない。

 生きていくうえで大事な多くのことや、愛情だったらたくさん教えてもらったけれど。

 悪事を仕込まれてなんかない。

 星蜥蜴の後を追うように始めた怪盗稼業も、自分で決めたことだ。

 確かに泥棒は、罪だろうけれど。


「怪盗星蜥蜴の名にかけて、私はお前みたいなやつを絶対に許さない!」

 悪の道に踏み込むために、仕込まれた覚えなどひとつもない!

 ナイフを構えて、男が突っ込んでくる。

 固い音が響いた。

「結構な厚さの板ですこと」

 エリザベスは天窓をふさいでいた板で、ナイフを受け止めた。男が掴んでいるナイフを、刺さった板ごと押し返す。たたらを踏んだ男に、エリザベスは勢いをつけて。

「これはこの子の分!」

 足元の鉄格子を振り上げて、男の側頭部に思い切り叩き込む。フルスイングで鉄の塊を頭に食らった男の体は大きく傾いだ。

「この子の痛みには、全っ然足りないでしょうけ、どっ!」

 とどめとばかり、エリザベスは男の背中を蹴っ飛ばした。安定を失った男は、そのまま地上へと落下していく。どおん、と派手な音がした。

「怖かったでしょう。今度こそ大丈夫だからね」

 背後で固まっていた少年を、もう一度抱きしめた。背中をとんとんと叩く。

 エリザベスの小さな手じゃ、父の包み込むような温かさには到底敵わない気はしたけれど。

「怪盗さんは、どうして僕を助けてくれたの?」

 まだ温もりを信じられないような顔をした少年の問いに、エリザベスは微笑んで答える。

「私もパパに、助けてもらったからだよ」

 この無力な子どもと同じように。暗く冷たい場所から、優しい腕の中へ。

「だからあなたを助けられたのは、パパからもらった勇気のおかげなの」

 

「エリザベス!」

 視界の端に、白い光が踊った。威圧するような大声は、それでもエリザベスにはおなじみのもので。

「これは怖がらなくても、平気」

 そう言いながら、エリザベスは少年の肩を軽く叩いた。少なくとも、少年は怖がらなくても良い相手だ。エリザベスにとっては油断ならない相手だが、少年の親方のような醜悪なものと対峙するよりずっと良い。

「あら、警察のお兄さん」

 梯子を昇ってきたニックが、エリザベスにランタンを突き付けていた。

「こんばんは」

「なにをのんきな……!」

 まだ体を預けたままの梯子を乗り越えようとして、ニックは動きを止めた。

「その子どもは誰だ」

 少年に目を止めて、ニックは注意深くこちらの様子を伺う。

 人質でも取っていると思われたかもしれない。だから少年の身に危険が及ばないように、ニックは激情を抑えている。

 彼なら、信用できる。


「あなた、あの人のところへ行きなさい」

 背中を押すように、エリザベスは少年をそっと前へと押し出した。

「あのお兄さんはね、警察官。ちょっと怒りっぽいけど、子どもを殴ったりは絶対にしない。事情を説明して、保護してもらうと良いわ」

 警察にまで予告を叩きつけたのは、いつも通りの手順を踏んだのもあるけれど。囚われの贋作職人を、正しい道に導いてほしかったのもあるからだ。

「私はあなたが彼のところに行ったら、すぐ逃げさせてもらうけどね」

「どうして? 怪盗さんは、一緒に行かないの」

「あの人はそもそも、私を捕まえに来たんだもの。私のことを何か問いただされても、適当に答えて。脅されて怖い思いをしましたとでも言えば、あんまり強くは問いただされないでしょ」

 エリザベスが幼い子を盾に取るような悪人だと思われるとしたら、それは少しばかり寂しい。それでもこの子の平穏のためだと思えば、少しくらいは泥をかぶっても良いだろう。泥棒なんだし。

(ちょっとパパの真似っこ、してみたかっただけ)

 エリザベスが父からもらったものを、誰かに返せたらいいなと思っただけだ。

「もうあなたは自由だよ」

 戸惑うように、少年はエリザベスを見上げる。

 長い間、狭い世界に閉じ込められていたこの子が、羽ばたいていけるように。幸せを祈りながら、優しく笑って送り出そう。

 細い足を踏み出して、少年はニックの方へと歩み寄っていく。頼りない足取りで、それでも決意したように前を向いて。

 ニックが足場にしている梯子まで、少年は辿り着いた。ニックが手を伸ばす。二人連れでは梯子は降りられないだろうに、それでもまずは手を差し伸べてくれた。

「えっと……。怖くない、からな」

 状況は飲み込めていないようだが、ニックは少年を安心させるために言葉をかける。

 やっぱりこの人に託して良かった。

 少年も両手を伸ばして。


「ごめんなさい!」

 そのまま梯子ごと、ニックを突き飛ばした。

「え」

 怪盗と警察官、同時に声が漏れ出す。

 ニックの体が後ろに倒れこんでいく。ニックは梯子にしがみついたまま、声もなくエリザベスの視界から消えていった。

「僕、怪盗さんと一緒に行く!」

 バキバキと、枝が折れる騒々しい音がした。直後の大きな衝撃音。

「えっと……」

 少年がニックではなく、エリザベスを選んだ。どうもそういうことらしいが。

「私、泥棒で、警察に追われる身分だけど」

「それでも良い、です」

「あなたの事をとても助けたかったけど、正直、助けた後のことは何も考えてないよ?」

「助けてくれただけで、良い」

 そう言ってから、少年は頭をぶんぶん振った。

「だけは、嫌だ。だけじゃなくて、一緒に行っても、いいですか」

 頭を下げて、少年は答えを待つ。警察に保護してもらった方がいいんじゃないだろうかとは、思うのだけれど。

「……怪盗に盗まれるので、良かったら」

 自分も怪盗に盗まれて、たくさんのものを得たのだし。やっぱりこの子はなんだか、放っておけない。

 エリザベスはもう一度、少年に手を伸ばした。


「エリザベスううう! てめえ小さい子を使って、攻撃してくるとかっ、卑怯だぞおおおおいってえええちくしょおおおお!」

「あ、生きてた」

 姿こそ見えないが、暗闇の中にニックの絶叫が木霊した。背後の木の枝がクッションになったのか、どうやら無事であるらしい。

「これだけ元気な声が響き渡っちゃったら、お仲間もすぐ駆けつけるでしょうね。急がなきゃ」

 安堵の息を吐きながら、エリザベスは少年に言う。

「梯子倒しちゃったから、木をつたって降りるしかないけど、できる?」

「頑張り、ます」

「まあ枝ぶりのしっかりした木ばかりだし、どうにかなるか。私の言うとおりに枝を掴んで、足をかけてね」

 真剣な表情で、少年はうなずいた。

「お願いします、怪盗さん」

「私のことは、リザって呼んで」

 敬語も使わなくていいからとエリザベスが加えたら、少年はこてん、と首を傾けた。

「エリザベスだから、リザ?」

「それもあるけど」

 エリザベス。

 確かにその名前から、つけられた呼び名ではあるけれど。

 もっとふさわしい由来がある。

蜥蜴リザードの娘だからよ」

 エリザベスをリザと呼んだ父は、実際はエリーでもベスでも、どう呼ぶのでも構わなかっただろう。

(だけど私は名乗るなら、パパの娘に相応しい名でありたい)

「リザ」

「うん」

 呼びかけに答えれば、少年は何を言うでもなく、恥ずかしそうに俯いた。

「あなたの名前は?」

「コリン」

「コリンね。そのまま呼べばいい?」

 名を呼ぶときは、親愛を込めたい。だから彼の呼ばれたいようにと思って尋ねた。けれど特にこだわりはないのか、コリンはエリザベスの問いにただうなずく。

「よろしくね、コリン」








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