指先の勇気 -Ⅳ

 不安げな顔をした少年。叫ぶか問いただすかの唇は震えるばかり。

 あの日の自分みたいだ、と思う。

 だからエリザベスは、世界で一番優しかった声を思い出して、名乗る。

「怪盗エリザベス、参上」

「怪盗、エリザベス?」

 目をぱちぱちとさせながら、少年が問うた。

「そう。どんなところからだって、宝物を盗み出す怪盗よ」

「どんなところから……でも」

「うん。冷たくて暗い、屋根裏部屋からだって」

 少年の肩がぴくりと跳ねた。

 少年の小さな肩は、エリザベスよりもずっと細い。十ばかりに見えるが、見た目と年齢が釣り合っていない可能性もある。

 こんなところに閉じ込められては、草木だって人間だって育ちはしないだろう。

「……ねえ。部屋に積んである絵は、あなたが描いたもの?」

 改めて屋根裏部屋を見渡す。

 散らばった画材。乱雑に積まれた油絵。少年の傍らには、キャンバスが立てかけられた古びたイーゼルがあった。

 少年はゆっくり頷く。

「すごい……。すごいことだよ、それは。私、あなたの描いた絵、他にも間近で見たことあるのね。あんまり、鑑定眼に自信はないけど。それでも模写とはいえ、相当の技術と才能がないと描けないものだと思ったよ」


「僕のそれは、絵は、ズルしてるから」

「贋作だってこと?」

 少年は頭を上げないまま答えた。

「それもあるけど、それだけじゃ、なくて」

 少年は何かしら、エリザベスの思う以上の後ろめたさを抱えていそうだった。申し訳なさそうにうなだれた頭を、どうしたら上げられるだろうかと考える。

「それにやっぱり、怪盗さんの言う通り偽物を作ってるから。騙すために描いてるんだって、わかってるんだ」

「好きで描いてるんじゃないよね」

 少年は横に頭を振ったが、肯定なのか否定なのかはよくわからない仕草だった。

「ここにも好きでいるんじゃ、ないでしょう」

 大人に、悪いものに、いいように使われている者がいる。それは多分エリザベスが思うよりたくさんいて、運良く救われたものもいれば、救いを待っている者もいて。己に手が差し伸べられることをとっくの昔に諦めて、絶望を絶望とも思わず生きる者がいるのだろう。

「だったら私が、ここからあなたを連れていく」

 小さな窓から目いっぱいに腕を伸ばして、エリザべスは勝気に笑む。

「こんな場所で奴隷みたいに使い潰されるなんて、大損失よ。ねえ、私があなたを盗み出してあげる」

 俯いた白い顔が上を向く。

 少年が幸福を諦めて、絶望に身を浸しているなら。

 怪盗エリザベスは、力の限りにその手を伸ばす。


「……って、かっこいいことを言ったけど。ごめんね、私の体格じゃこの窓を通れないの。だけどあなたの体なら、通れる大きさだから」

 エリザベスはイーゼルの前に置かれた椅子を指さす。

「椅子があれば、天窓まで手が近づくでしょう? そうしたら私が腕を掴んで、あなたを引っ張り上げるから。ちょっとだけ自分で頑張ってもらわなくちゃなんだけど」

 天井が低くて良かったと思う反面。それだけ少年が、窮屈な生活を強いられていたのだと胸が痛んだ。

 だから、絶対に。

「私が必ず、安全なところまで連れて行ってあげるから」

 眩しいものを見るような顔で、けれど少年は首を振った。

「できない」

「やってみようよ。椅子を運んで踏み台にして、ちょっとつま先と手を伸ばすだけ。無理によじ登ってこなくても、私が何とか引き上げてあげるよ」

「出来ない、怖い」

 服の裾をぎゅっとつかんで、少年は再び下を向いた。

「出来るよ。怖くなんてない」

「前は、失敗した」

「失敗?」

「前は、そこ、鉄格子でも板でもなくて、ガラスだった。ガラスなら割れば出られると思って、やってみたけど」

 湿った声で、少年は続けた。

「すぐに親方に、見つかって」

 自分を守るように、少年は両腕を抱く。

「めちゃくちゃに殴られた。怒鳴られて、殴られて蹴られて、死んじゃうかと思った」


 唇をかみしめて、エリザベスは叫び出しそうになるのをこらえる。だけどこみ上げる怒りと嫌悪感は、おさまりそうもない。

「きっとまた見つかっちゃう。もう痛いのは嫌だ。ご飯を抜かれて、ひもじくなるのも。怖い、いやだ」

 板も鉄格子も、簡単に外れた理由が分かった。素人仕事だったのもあるのだろうけれど、あれは見た目だけの脅しでも良かったのだ。

 鉄の柵よりもずっと強固で堅牢な、恐怖という名の檻に、少年の心は囚われているから。

「私も嫌」

 自分で思うよりずっと強くて大きな声が、エリザベスの口から出た。

「こんなところにあなたを置いて行くなんて、絶対に嫌」

 こんな冷たくて、恐ろしい場所になんか。

「暗くて狭い部屋に閉じ込められて。怯えて、痛くて、泣いて。誰にも優しくしてもらえないで、愛されないで生きていて良いはずないじゃない!」

 人として生まれて、そんな悲しいことがあってたまるものか!

「少しでいいから、頑張って」

 今ここで、完全に乗り越えろとは言えない。それはきっと時間をかけて、一人じゃなくて優しい誰かと、少しずつ癒していくものだろうから。

「ちょっとでいい、勇気を出して」

 自分の意識に、笑え、と命じる。怯えさせてはいけない。自分だって何度、父の温かな笑顔に救われてきたか。だけどあまりにやるせなくて、きっと自分は今、とてもひどい顔をしている。


「絶対に、助けるから」

 指先まで目いっぱいに伸ばして手を差し出すエリザベスは、情けない顔をしていたかもしれないけれど。

 それでも少年は、ゆっくりと。音をたてないように、そっと、椅子を天窓の真下まで運んだ。背もたれを掴んだ細い腕を支えに、少年は椅子にのぼる。

 震える両の腕を、少年は懸命に伸ばした。

「たすけて」

 自分の力でここまで来た、少年の折れそうな手首を。

「僕を盗み出して、怪盗エリザベス」

 エリザベスはしかと掴む。

「もちろん」

 渾身の力を込めて、エリザベスはその体を闇の中から引き上げる。自分の腕の中に収まった頼りない体を、守るようにぎゅっと抱きしめた。

「もう大丈夫。今まで、よく頑張ったね」

 微笑んで、少年の勇気を讃える。すがるように胸にしがみついた子どもの頭を、エリザベスは優しくなでた。







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