指先の勇気 -Ⅱ
開店前の雑貨屋、その擦り切れた石壁にもたれかかって、少女は手にしたサンドイッチをかじった。湯気をたてる紅茶からは、気の抜けた香りが漂う。
「……まっず」
吐き戻しそうになったそれをぎりぎりで口の中にとどめて、紅茶で流し込む。その紅茶もかろうじて色のついた、お湯みたいな薄さだった。
「なにこのベーコン、馬鹿みたいに硬くて塩っ辛いだけなんだけど。チーズの口あたりも最悪だし」
「酒のつまみには、これくらいでちょうど良いんですよ」
傍らに立つ、首から商品盆を下げた男が言う。
「お酒なんて売ってないじゃない。この紅茶だって、何回出がらし使ってるんだか」
荷車に積んだ保温缶を睨む。この分じゃ珈琲もツナサンドも期待出来やしない。
「自分で作った方が美味しいわ」
「うちの店は、警察官御用達ですが?」
「こんなろくでもないもの食べさせる店、逮捕されちゃえばいいのに」
その言葉に、男は片眉を上げる。
「俺が逮捕されたら、君も困るでしょうに」
「あなたに協力してもらえなくても、自力でなんとでもします」
「君のことを喋ってしまうかもしれませんよ? 怪盗エリザベスさん」
囁いた声の響きは甘い。整った顔立ちも、また。
「金も払わない相手に情報を提供してやるほど、腑抜けでも商売下手な人間でもないでしょう。情報屋さん」
かじりかけのサンドイッチを突き返して、少女は言い返した。
「路肩で商売やってるだけで、捕まることもないでしょうが。万一ややこしいことにでもなりそうなら、トンズラこかせていただきますよ。客商売は情報収集にはちょうどいいがね」
「それで色男さんはややこしくなる前に、お屋敷からはトンズラしてきたってわけ?」
今はくたびれた衣服の上に薄汚れたエプロンをかけているが、前回会った時の彼は、美しい仕立ての従僕の制服を着ていた。
男は情報収集のためなら、身分も経歴も作り変える情報屋だ。偽りの姿で標的に近づいて、あらゆる情報を手に入れて金に換える。
「ちゃあんと辞表を書いて、挨拶もして、何なら次の奉公ために推薦状まで書いていただきましたよ」
「奥様とよろしくやってた不届き者を、円満退職させてくれるなんてねえ」
身辺を怪しまれずに場を去ることができなければ、情報屋などやっていられないのだろうけれど。
「奥様とも後腐れなく、お別れいたしましたとも」
男の真の姿も知らずに、真実の愛を追い求めていたであろう人の姿が、脳裏に浮かぶ。
「住む世界が違うのですよ出逢ったことが間違いなのですよ、旦那様はやはり裏切れませんあなたの幸せを思えばこそです。ああ、お互いこの愛は、生涯胸に秘めたまま生きてゆきましょうと。まあそんなことを言って。だいぶ泣かせてしまいましたが、永遠にお別れさせていただきました」
「最っ低」
ぺらぺら調子よく語られる、薄っぺらい言葉。さすがにあの奥様に、同情を禁じ得なくなってきた。彼はエリザベスの情報収集依頼に、十分な成果を持って応えてくれたけども。
「私もパパと同じく、あなたの能力自体は信頼するけど。人間性は全く信用してないからね」
「そりゃあ金の上で成り立つ信頼関係の方が、信用できますからね」
商売における信用の話をしているのだろうけれど。こういう人情味に欠けたことをあっさり口にできるところが、やっぱり気に食わない。
「でも君のお父上には、お友達価格でお安く情報提供させていただいてたんですよ? もちろん、娘のあなたにも」
「それはどうも、ありがとうございますわ。お友達になったつもり、ありませんけど」
「つれないなあ。お嬢さんが困ると思って、お手頃価格にしてるのに」
すました顔で紅茶をすする少女の顔を、覗き込むようにして情報屋は言った。
「だって君、収入源なんてないでしょう」
紅茶を飲み込む。白湯だと思い込みながら飲んだ紅茶は、妙な雑味が舌に残った。
「金に変えるために盗むでもなし、怪盗業は一銭にもならない。俺らみたいな裏稼業の人間と積極的に取引するでもない。こうやって商売したり働いたりするでもない」
「依頼料をあなたに払わなかったことは、無いでしょ。パパの遺してくれたお金で、何とかやってるもの」
「そんなもの、いつまでもあるわけじゃないでしょうに」
「……良いの。パパの無念を晴らせるその時まで生活していければ、それで」
そのあとのことなんて、どうだっていい。
口を噤んだ少女に、情報屋は大きく息を吐いた。
「君もさ、せっかく一級の怪盗スキルがあるんだから、それを本当に仕事にしちゃえばいいんじゃないかな? 君が目的とする硝子のなんちゃらを破壊するついでに、売れそうなものをちょこっと拝借しちゃえばいいじゃないですか」
そこで情報屋は、意地の悪い笑みを浮かべる。
「君にどんな言い分や、盗品の区別があろうとね。やってる事は等しく泥棒だからね」
「言い訳するつもりなんて、無いもの」
言い訳はない、けれど少女は情報屋を睨みつけながら言う。
「余計な盗みをするつもりもないけどね」
「もったいないなあ。だってさ、君、見た? お屋敷の隠し部屋にあったお宝! あれ、確かに真贋入り混じってたけど、十分に金になるものがごろごろありましたよ。ひとつふたつ、失敬しようかと思ったくらいです」
「寵愛した使用人が盗み働いて辞めていったなんて、奥様が卒倒しちゃうでしょうよ。……でも、そうね」
まるで美術館のようだった、小さな秘密部屋を思い出す。金細工銀細工、極彩色の焼き物。
アラベスクの壁紙にかけられた、何枚もの絵画。
「絵は素晴らしかったと思うわ。私は素人だけど、パパが教えてくれることはどんなことだって大切にしたかったから。だからそれなりに、芸術だって学んだ。鑑定まではできないけど、真贋に関わらず完成度は高かったと思うんだけど」
「確かに、あそこの絵は精巧だったな」
「あなた、鑑定はできるの?」
「俺はそこまで目利きじゃありません。でも、絵画を売買していた相手は大体洗えましたよ。まあその、胡散臭いところです」
なるほど、と少女はため息とともに頷く。
「取引相手が信用ならないから、その商品も信用ならないってことか。決め手には欠けるけど、贋作を疑うには十分かもね」
「まあ疑惑というか、今や確信なんですけどね」
流石は情報屋というところか。既に何かを掴んでいるらしい彼に、少女は視線だけで問うた。
「腕利きの贋作職人を抱えてます」
贋作を生み出している者がいる。
この世に偽物が存在しているからには、当たり前なのだけれど。
「職人、か。そんなに腕のいい職人を雇っているなら、『魔法の泉』は関係なさそうかな」
「『硝子の蜃気楼』とやらを生み出しているのが、『魔法の泉』とかいうのなんでしたっけ」
「そういうこと。職人が贋作をこしらえているなら、『魔法の泉』の出る幕は無いもの」
冷めきった紅茶を飲み干す。
「私の出る幕も、なし」
空になったマグカップを商品盆へ返却したら、思いのほか力が籠った。ごとんと重い音が響く。
「そうですね。本来なら怪盗エリザベスさんの出番ではないでしょう」
背後では雑貨屋が、開店準備を始めていた。少女のもたれている壁の窓を、内側から拭き始めた店主に気がついて、そっと離れる。
「でも君は、哀れな贋作作家のことを知ったら放っておけないんじゃないかなあ」
そのまま立ち去ろうとしたのに。
「……なにそれ」
足を止める。
今の彼は、怪盗エリザベスの望む情報を掴んでいるわけではなさそうなのに。面白半分か、彼の都合のいいようにか、なにかのネタを吹き込まれるだけ、そう思うのに。
「君だって、ジャンが放っておかなかったから今があるんでしょう」
父の名まで出されては、知らないふりはできなかった。
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