指先の勇気
指先の勇気 -Ⅰ
朝一番の冷たい空気に、吐く息が白く染まった。街道には乾いた風が吹く。
秋の終わり、冬の入り口。右手には買ったばかりのサンドイッチ、左手には珈琲を。通勤の道すがら街頭商人から買い求めたそれで、一日の熱量には到底足りない朝食を済ませる。珈琲カップが指先を温めるが、まだ口はつけない。
なぜならニックは、猫舌なので。
「もうほとんど、腫れも引いたな」
ちらりとニックの顔を伺いながら、隣の先輩が言った。
珈琲カップを返却しなくてはならないから、商人が店を広げる傍からはあまり離れられない。往来の妨げにならないよう、近くの雑貨屋の外壁に寄り添って、二人居並ぶ。
「おかげさまで」
ニックは辟易としながら返した。
署内でニックと顔を合わせる度に、誰も彼も不名誉な負傷について突っ込んだ。だからそれが気遣いであれ、ニックはもううんざりしている。
だけど、あの子の気遣いは悪い気はしなかった。
公園で出逢った、聡明そうな女の子。銀杏みたいな明るい色をした、金の髪の。
ニックの素性を見抜いた観察眼、物怖じしない振る舞い。
二十代に仲間入りをしてからしばし経つ自分から見ても、しっかりしていた。思い切りサンドイッチにかぶりつく様は、淑女の振る舞いじゃなかったけれど。
(可愛らしいお嬢さんが、たくましいな)
素性もよくわからぬ少女のことが、微笑ましくもあり、頼もしくもあり。名前ぐらいは聞いても良かったかな、などと思う。
「しかしあれだ、もしかして怪盗エリザベスって、めちゃくちゃ可愛かったりする?」
「はい?」
どういう流れで今の質問になるというのか。ニックは右手のサンドイッチを握り潰しかけた。
「可愛さに油断して、一発食らったとか」
「顔なんてわかんないですよ。そもそも可愛かろうが、そうじゃなかろうが、そんなもんに誤魔化されてたまりますか」
馬鹿にしないでください、とニックは言い返す。
「じゃあ完全に、向こうが上手だったってことだなー」
「うるっせえ!」
手に力が籠って、サンドイッチから具材がこぼれ落ちる。
「先輩に向かって、なんて口をきくんだお前は」
具材をキャッチした先輩が、それを口に運びながら言った。まっず、と一言吐き捨てる。
「……すんません」
熱くなるのは悪い癖だ。温度の下がってきた珈琲に、それでも息を吹きかけてニックは口をつける。
「しかしまあ、よく挑んでくるもんだね、怪盗のお嬢さんも。エリザベスは標的を砕く時以外、魔法を使わないんだろう?」
「俺の知る限りでは。武器のようなものは使ってきますけど、不可思議な技を使うのは見たことがありません」
「星蜥蜴は使ったって言うけどなあ」
「らしいですね」
ニックが警察の職務に就いたのは、ちょうど星蜥蜴が姿を現さなくなった頃合いであった。だからかの怪盗の盗みの手口を直接に見たことはなく、それらはすべて伝え聞いたものだ。
夜に流れる星のように現れた星蜥蜴が、数多くの美術品を無に帰し続けた三年。長いような短いようなその期間に、警察組織は彼を捕まえることができなかった。
上司や先輩達の無念の思いを、その時は現場にいなかったニックも引き継いだつもりでいる。一市民だった頃から、新聞や噂話が面白おかしく怪盗を持て囃していたのも、不道徳だと思っていたし。
「大昔は犯罪者側も警察側も魔法使いの数がいて、魔法でドンパチやってた時代なんてのもあったらしいがな。今は拳銃も携帯しているし、正直警棒でぶっ叩いた方が早い」
「物騒なものを使わずに制圧できるなら、それに越したことはないですけどね」
「エリザベスは物騒なものを使ってくるんじゃなかったか?」
それは確かに、ニックだって痛い目を見た。
けれどエリザベスは小さな体で、たった一人で、こちらに挑みかかってくるのだ。
「……上等だ。素手で相手してやるってんだ」
低くつぶやいたニックに、先輩は呆れたように息を吐いた。
「まあエリザベスちゃんは、女の子みたいですし? 素手で組み伏せられるなら、その方が良いかもねえ」
「でしょう。女であるか否かはともかく」
「で、結局、顔面に石を叩き込まれると」
けらけらと笑う先輩に、再度暴言をぶつけそうになるのを抑える。行き場を無くした苛立ちが手に伝わって、ニックは今度こそサンドイッチを握りつぶした。
(くっそあの怪盗女あああああ!)
悔しさに踏み鳴らす足元に、サンドイッチの具材がぽろぽろと落ちる。食べ物を粗末にするのは本意でない。ニックはかろうじて手で受け止めた魚のほぐし身と、潰れたパンを一緒にかじった。油の抜けきった魚の、ぼそぼそとした食感が舌に残る。
三年かけて泥棒一匹捕まえられなかったと、罵る者もいた。
怪盗エリザベスが現れてから、もうすぐ一年と半分。
「今に見てろよ!」
悪い後味を引くサンドイッチ飲み込んで、ニックは再び使命感を燃やすのだった。
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