怪盗の娘 -Ⅳ

 指先に、僅かな違和感。

 壁に両手を着いて、ぐっと力を込める。酒瓶が詰まっていない分、棚よりも手応えは軽いかと思ったが、こちらも石壁だ。重量のある壁を少しずつ動かす。

 通路側に、光が漏れ出した。

 石壁の向こう、現れた空間。

「怪盗エリザベス、参上」

 声は張り上げなかった。狭い隠し部屋なら、通常の声量で十分だから。

「奥方様のプライベート空間にしては、狭苦しいのね。ま、隠し部屋だものね」

 窮屈な部屋の壁には、いくつも絵画が掛けられていた。目の高さに飾られた絵の下にはキャビネットやテーブルが置いてあって、そこには壺やら彫刻やらも並んでいる。

 美術品の中心には、この屋敷の夫人。線の細い、白い肌の美女だった。

「……お邪魔しちゃった?」

 青ざめた夫人を支えるように隣に立つ男は、主人ではなかった。

 従僕の制服を着た若者が、夫人に寄り添う。

 密会にはうってつけの場所だものね、とは思ったけれど言わなかった。

「あなたが、怪盗エリザベス?」

 慌てるでも叫ぶでもなく、夫人は冷静に問うた。

「その通り。夜分に失礼いたしますわ、奥様。お静かにお願いできまして?」

 願うまでもないだろうか、夫人は黙してエリザベスと相対していた。

 儚げな印象に反して肝が据わっているのか、有効な対策でもしているのか。それとも隣に侍る者に、絶対の信頼を抱いているから。

「ええ。ここに人を呼ぶのは、あまり好みませんから」

 お隣にいる方は良いの? とは思ったけれど、これも黙っておいた。そのための隠し部屋として使っていてもおかしくないし。だからこそ人を呼びたくないのかもしれない。


「とっても助かるけど、私、『硝子の蜃気楼』は容赦なく盗ませてもらうよ。奥様はそれを、ただ黙って見ていてくれるってわけ?」

 人を呼ばないなら、どうやって怪盗を食い止めるつもりだろう。まさか隙を見て、夫人がエリザベスを取り押さえる気か。この場は見逃して、外で警察官たちが捕まえることに期待したとして。エリザベスが狙った獲物は砕け散ってしまうことくらいは、知っているだろうに。何かの罠か。

「そこの色男が、護衛も兼ねてるってところ?」

 エリザベスは従僕の男を見やった。

 金持ちの見栄で雇われた彼らは往々にして容姿が端麗だが、この従僕も例外ではないらしい。身のこなしは訓練したものかもしれないが、生まれ持ったのであろう目鼻立ちも整っている。

「奥様に危害を加えるようでしたら、暴力も辞さないですが」

 従僕の主張に、夫人の目元が潤む。熱を帯びたその瞳に、他人事ながら色々大丈夫かと思ってしまう。彼の甘い雰囲気漂う顔立ちに惹かれる気持ちはわからなくもないが、地位ある、しかも既婚の夫人が誘惑されてしまうのはどうなのだろう。誘う方も誘う方だけど。

「この部屋の品々に手を出すだけなら、あなたの邪魔は致しません」

 従僕は確認するように、夫人の顔を覗き込んだ。

「私はここの絵画や美術品に、ほとんど興味がないのです。怪盗のお嬢さん、どうぞお好きなように」

「そうなの?」

 狭い部屋とはいえ、室内を飾る美術品の数は多い。たとえ贋作が混じっていたとしても、小さな美術館のような空間は十分に目を楽しませてくれる。金銭的な価値だけにこだわったとしても、これだけ収集するのには金も時間もかかっているだろう。


「貴重な品を手に入れてくれたご主人も、報われないのね」

 エリザベスの言葉に、綺麗な形をした夫人の眉がわずかに歪む。すがるように隣の従僕を見つめた。エリザベスは頭の中で主人と従僕の姿を並べて比較するも、品のない行為だと思ってやめる。

「じゃあ、遠慮なくいかせてもらうね」

 夫人の肩をしっかりと抱いて寄り添う従僕の姿に、いくらなんでも開き直りすぎじゃないかと呆れた。その仕草は夫人を抑え込んでいるようにも見えたのだけど、盗んでも構わないということなら、単にくっついていたいのかもしれない。

 まるで見守られるように盗むのは、妙な気分だ。

「虚像よ無に帰れ」

 壺に、彫刻に、金細工に。エリザベスは次々に美術品に触れる。彼女が手にしたものは、ブロンズや金であってもガラスのように粉々に砕け散った。赤や青と様々な色を付けた焼き物も、砕けた欠片は銀色に輝きながら散りゆくのだった。

「不思議ね」

 息を吐きながら、夫人が言った。思い入れのない品々が壊れたところで、悲しくもないのだろう。

「だけど、残っているものは贋作ではないということかしら」

 夫人は部屋を見回す。

 部屋にある美術品のうち、半分にエリザベスは手を付けなかった。

「さあ」

 エリザベスは肩をすくめる。

「私、『硝子の蜃気楼』しか標的にしていないの。それなら目にしただけでわかる、から」

 足元に散らばった、銀の破片。

 世の中に偽の美術品は多く出回るけれど、エリザベスが狙う偽物は、決まったものだけ。

「言ってることが、よくわからないわ」

「わからないでしょうね。とにかく私が砕いたものは間違いなく偽物、他の物ははっきりわからない。パパは私に美術のこともたくさん教えてくれたから、少しは見る目があるつもりだけど、正確な鑑定までは無理よ」


 壁に掛けられた絵画を眺める。今回、絵に関しては、エリザベスが標的にするものは一枚も存在しなかった。

「だけどこの部屋に飾ってある絵は、どれも見事ね。どの絵も画家の特徴はしっかり出ているし、技巧も癖も見て取れる。贋作だとしたら、私の鑑定眼じゃあてにならないとはいえ……相当精巧なんじゃないの、これ」

 エリザベスはそっと絵画に触れる。画布は砕けなかった。

「まあ、残ったものは大事にしたら。ご主人もその方が喜ぶでしょう」

 その言葉に、夫人は苦い顔をする。

「この部屋の品が偽物でも本物でも、どうでもいいわ。夫から与えられるものは、贈り物だって愛情だって偽物ばかりなのでしょうから」

 そう言って、従僕にしな垂れかかった。

「そりゃあ奥様の方からも偽物の愛情しか返していないんじゃ、そうなるんじゃない」

 集められた美術品の半数――もしくはそれ以上――が贋作であったことが、主人が己の妻を軽んじた結果なのかどうかはわからない。けれど妻が後ろめたい秘密を抱えていて、それでなお真っすぐ愛情を向けてくれる夫など、そうそういないとは思う。

「あなたみたいなお嬢さんには、望まぬ結婚を強いられた女の不幸はわからないわね」

「そうね。家やら名誉やらを背負った人の気持ちも色恋も、わからないね」

「伸びやかに生きてきたのでしょう。自由で、羨ましいこと」

 そうして、この世全ての悲しみを見てきたような瞳で、エリザベスは見つめられて。

「……目ん玉がガラス玉で出来てそうね、あんた」

 常には明るく光る瞳を暗くして、夫人に言葉を投げつけた。

 何を言われたのかわからないという夫人の表情に、エリザベスはふっと息を吐く。

「お邪魔して悪うございましたですわ。私の目的は達成されたから、失敬いたしますわね。どうせ『魔法の泉』のことなんて知らないでしょうし」

 困惑した夫人と従僕に、エリザベスは茶化すように言った。

「あとはお二人でイチャイチャするなりチュッチュするなりそれ以上のことをするなり、どうぞご自由に」

 エリザベスはひらひらと手を振って、隠し扉に向かう。

「そこに真実の愛だとかがあるかは、知らないけれど。ごきげんよう」

 夫人を支える従僕が身じろぐ。それを無視して、エリザベスは隠し部屋を後にした。

 

 地下は使用人の騒ぎを聞いて、警察がなだれ込んでいる頃合いかもしれない。三階もまだ人が多いかも。

 裏通路を巡って、用心深く表の気配をうかがう。二階にある一室の、本棚の裏から屋敷内へと出た。

 暗い部屋には人気がなく、天蓋の閉じられた小さなベッドがひとつ。空の寝室に想いを馳せつつ、すぐに思考を中断する。誰もいなくて助かったと思いながら、窓を開け放った。

「見つけた!」

 窓枠に足をかけたところで、背後から声が飛んでくる。

「うわーお」

 室内扉を勢いよく開けて、ニックが部屋に飛び込んできた。顔はよく見えなくて、怪我の程度はわからない。

「二階で助かった、なっ!」

 エリザベスは飛び降りた。足場を中継せずに、そのまま芝に着地する。

「てめえエリザベスこのやろおおお!」

 頭上からニックの雄叫びが降って来る。彼のこの口の悪さを知っていると、善良な一般市民に相対した時の、公園での好青年ぶりがおかしい。

 なんだか複雑でやるせない人間模様を垣間見てしまった気分だったけど、ニックの奮闘ぶりが愉快でちょっと気が晴れた。

「ごきげんよう!」

 軽やかに跳ねて、怪盗エリザベスは夜の中へと消えていく。





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