怪盗の娘 -Ⅱ

 午後の日差しに輝く泉は、街の人々の憩いの場となっていた。

 緑豊かな、広大な面積を擁する都市公園。晩秋の訪れに、園内の木々は葉を鮮やかな色に染めていた。昼下がりの公園を訪れた人々は、思い思いの午後を過ごす。

 愛犬と追いかけっこをする幼い兄弟。乳母車を押して散歩するご夫婦。遊覧馬車に揺られながら談笑する、優雅なご婦人たち。

 エレクトレイの街は、今日も平和である。

 泉のほとりのベンチに、バスケットを携えた少女が座っていた。

 歳の頃は十代の半ばか、もう少し若いくらい。面差しには幼さが残っているが、琥珀色の瞳は理性を感じさせた。くるくると巻いた金の髪も、リボンを飾った帽子の下で綺麗に纏められている。

 鳥のさえずりに耳を傾けながら、のんびりと読書や刺繍でも始めそうな少女は、傍らのバスケットに手を伸ばした。蓋を開けた籠から本か刺繍針でも取り出すのかと思いきや、中から出てきたのは新聞紙の塊だった。少女は手に持った灰色の包みを剥がす。

「いただきます」

 澄ました顔を綻ばせて、少女は新聞紙に包んでいたサンドイッチを頬張った。細長いロールパンに刻んだゆで卵をたっぷりと詰めた、たまごサンド。少女は満足気に、昼下がりのランチを堪能する。

 パンを直接包んでいた油紙でサンドイッチを掴み、外装にしていた新聞紙は膝に敷いてしまう。こうすれば食べこぼしを受け止めてくれるから、スカートが汚れずに済む。パンくずがはらはらと落ちていく膝の新聞紙を、少女はじっと見つめた。


『颯爽参上! 怪盗エリザベスの正体!!』

『消えた大怪盗、稀代の魔術師! 星蜥蜴との関係は?!』

 センセーショナルな見出し。紙面にみっちり綴られた、真実と虚実を織り交ぜた記事。面白おかしく、好き勝手に書かれてはいる。けれど民草にとっては格好の娯楽だからか、権威をあざ笑う象徴のような存在なのか。怪盗の存在を、おおむね好意的に受け止めているような内容であった。

 細かい文字に囲まれるように、誰もその正体を知らないはずの怪盗の姿が描かれている。

 悪戯好きな妖精のような、奔放な衣装と軽快なポーズ。不敵に笑んだ口元。

「似ても似つかないけど」

 顔が割れるヘマなんて、していない。

「まあ合格、かな」

 挿絵画家は、怪盗エリザベスをなかなか美少女に描いていてくれたようだ。世間は小さな怪盗の正体を女だと確信しているようで、それは名前や声、体格からして特定されても仕方ないだろう。性別を隠す気はさらさらなかったし、星蜥蜴の娘を自称しているのだから。

「でも、こっちは駄目。不合格」

 エリザベスの隣に描かれた挿絵に視線を移して、少女は唇を尖らせた。

 少女怪盗の傍らの、紳士の肖像画。

 それも想像でしかない姿、かつての大怪盗。

「これが怪盗星蜥蜴ですって?」


 怪盗星蜥蜴。

 巷に少女怪盗が出現する以前に、名を馳せた者。怪盗エリザベスが『父』と呼ぶ存在。

 少女は肖像画の上に落ちたパンくずを、丁寧に払った。

「パパはもっとずっと格好良いもん」

 そう口にして、少女は慌てて口を抑える。

 私が星蜥蜴の娘、怪盗エリザベスだってことは、もちろん秘密。

 ついでにナフキンでそっと唇を拭って、上品な仕草で淑女を装い直した。

 油染みでインクが滲んだ、星蜥蜴の肖像。

 こちらも整った造形で描かれているけど、父には髭なんてなかったし、もう少し若くたっていい。それにもっと優しい顔だ。

 大好きだったパパ。私の全てだった人。

 ぼやけた顔は本物には程遠いけれど、それでも記事からは父の存在を感じられて切なくなってしまう。

 油でなくて、別のもので新聞を濡らしてしまいそう。

 瞬きでごまかそうとしたら、不意に紙面に暗い影が落ちた。背後で落ち葉を踏みしめる音。

「……これは古新聞ですよ」

 座ったままゆっくり後ろを振り返って、少女は言った。

 少女の膝に広げられた新聞を、背後から覗き込んでいた人物を見上げる。

「最新号でしたら、あちらでどうぞ。旦那様」

 少女は手をひらりとさせて、泉の対岸にいる新聞売りの少年を示した。

 旦那様、というにはまだ若かったか。背後にいた青年は手袋に包まれた小さな手と新聞少年を見比べて、慌てて背筋を伸ばす。


「失礼! 人様の、ましてや淑女の背後から読み物を覗き込むなんて、無作法なことをしました」

 生真面目さを表情と口ぶりに滲ませて、青年は言う。まだ学校も卒業していない――そもそも通ったこともないけれど――年頃の小娘を、淑女として扱った青年の姿勢は好感が持てる。だから少女も精一杯に、品のいいお嬢さんを気取ってみせた。

「お巡りさんって、もっと高圧的なんだと思ってましたわ」

「いえ、決してそのような事は」

 言いかけて、青年は言葉を止めた。

「……なんで俺が、警察官だと?」

 僅かに、青年の口調と姿勢に緊張が走る。

「あらいやだ、当たっちゃった」

 肩を竦めて、少女も淑女の振る舞いを崩して言った。

「本当は後ろに回られる少し前、あなたが銀杏並木を歩いていた時から、観察していました。背の高い方だから、目について」

「観察って」

「歩き方が綺麗な方だなって。背筋を伸ばして、堂々として。その割に目線は忙しなく当たりを見回していて、まるで何かを警戒しているようだったんだもの」

「警戒していた訳では無いが……」

 そこで青年は、力を抜くようにふっと息を吐いた。

「職業病ですね。非番の時でも、街の様子を観察するのは自分の義務だと思っているので」

「熱心ですこと」

「お嬢さんこそ、鋭い観察眼をお持ちだ。見知らぬ他人の職業を言い当てるとは」

「当てたつもりは無かったんですけど。ただの空想遊びみたいなものでしたの。まさか本当に、警察官とは思いませんでしたわ」

 なんて、初対面の人間の所作だけで職業を言い当てた訳では無いけれど。

 貴方の職業なんて、とっくに知っているもの。

 なんてことは、当然言えるわけが無い。


「お巡りさんが見回っているなら、今日この公園は安全ね」

「はい。市民の皆様の安全は、自分にお任せ下さい!」

 思い上がっている、なんて思わない。彼は純粋な使命感から言っているのだろうし、平和なのは何よりだ。けれど。

「あなたは怪盗を、捕まえるの?」

 ひとつ声の高さを落として、少女は問うた。帽子の下の目付きを僅かに細めたことまでは、青年は気づいたかどうか。

「それはもちろん。自分の使命だと思ってますから」

 胸を張る青年は頼もしい。ちょっと後ろめたく――そして憎たらしいくらいに。

「でもお巡りさん。怪盗が盗み出すものは、偽物ばかりなんでしょう」

 怪盗エリザベスも、先代と呼ばれる怪盗星蜥蜴も。ともに贋作ばかりを標的にしていた。

「本当に貴重な美術品を損なうわけではないのに、悪いとおっしゃるの?」

「怪盗が触れた贋作はガラス片のように砕け散ってしまうので、あとから真贋の鑑定をすることができないんです」

「……まあ、盗人の言い訳と取られたら分が悪いですわね」

「とはいえ実際のところ、盗まれた品の所有者を調べたら、ブラックマーケットや贋作工房との繋がりが指摘された例は幾例もありますが」

「あら、だったら良いじゃない」

 少女の弾んだ声に、青年は渋面を作った。

「それでも良くはありませんよ。贋作だと知らずに購入した被害者もいるでしょう。決して褒められた行いではありませんが、贋作と知っていて購入した者だって、大切にしていたかもしれない」

「偽物がはびこったら、世の中が混乱しちゃう」

「そうならないようにするのは、本来、警察や司法の役目なんです。泥棒なんてお呼びじゃない!」

 青年の張り上げた声に驚いたのか、泉のほとりにいた水鳥が逃げていく。

「星蜥蜴が姿を現さなくなって、ようやくこのエレクトレイの街も静けさを取り戻したと思ったのに。何が娘だ、怪盗エリザベスだ! 盗みを通り越して破壊活動して、市民を惑わせて!」

 思いを吐き散らす青年をただ黙って見つめていたら、彼は我に返ったように再度背筋を伸ばした。

「けれどご安心ください。不埒な怪盗は、必ず捕まえて見せます。皆様の平穏のために、我々はいるのですから」

「傲慢ね」

 純粋な使命感。平和な街。わかっているけれど。

 あなた方じゃ救えないものだって、あるの。

「へ?」

「……鳥が逃げちゃった。私、バードウォッチングに来ましたの」

 少女はバスケットから、オペラグラスを取り出す。ついでに食べかけのサンドイッチをしまおうとして――拳骨より少し小さくなったくらいのそれを、大口を開けて一口に食べた。

「差し上げますわ」

 少女は青年に、油じみた新聞紙を差し出した。淑女らしからぬ少女の振る舞いに唖然としたままの、若い警察官の手にしわくちゃのそれを押し付ける。

「怪盗との追いかけっこ、せいぜい頑張って下さいませね」

 少女は口元についた卵のかけらを、ぺろりと舐めとった。






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