耳をすませば2(あるいは山月記2)
惑星ソラリスのラストの、びしょびし...
第1話
未だ陽の昇らぬ街は朝靄に沈んでいる。
その海を抜けて月島志津男が、遮二無二と立ち漕ぎで坂道を登っていく。晩秋の未明、その日は特に冷え込み志津男の吐く息は白く舞い上がる。しかしその額から汗や蒸気が噴き出してこめかみには血管が浮かび、今この瞬間にもぷつりと音を立ててぶっ千切れそうになっている。ふしゅりふしゅりと呼吸するたび、きつく食いしばった歯と歯の隙間からは唾があたりに飛び散る。長年連れ添った愛車、ロクに油もささないものだからすっかり焦げ茶色となった自転車のチェーンがギィッギィッと厭らしい断末魔をあげる。これでも志津男がまだ若かりし頃、学生の時分にはこの坂道なども汗はかけどもここまで苦戦することはなかったのだが今日に至るまでの二十年あまりの歳月が、志津男から若さと体力とそれ以外の何かとてつもなくかけがえのないものを根こそぎ奪い、代わりに落ちた代謝で燃え尽きてくれぬ脂身だけがうっすらと腹の周りに、年輪のように纏わりついていた。それでいて手足は枯れ木のように細いものだからその青白い貌と相まってさながら幽鬼のようである。その貌は見る角度によっては若く、あるいは幼く、それでいて何か困憊しきった老人のような奇怪な印象を与えた。
志津男の乗った自転車は、これでは歩くほうが余程早いのではないかと思われるほどにゆるゆると進みやがて坂の途上にて立ち漕ぎ特有の全体重を動員したあの一漕ぎの途上の姿勢にて完全に静止する。志津男は殆ど真横に斃れこむのではないかといった勢いでようやく自転車から降りた。全身の筋肉がぎちぎちと千切れ悲鳴を上げる、呼吸はなかなか元には戻らず、志津男は前かがみになって膝に手を置きぜぇぜぇぜぇぜぇと肩で息をする咳き込む終いにはおえっ、え゛え゛っといった具合にえづいたのちにようやく身を起こしとぼとぼと自転車を押して坂道を進む。
ところで貴兄は耳すまをご覧になったことはあるだろうか。あのスタジオジブリのそれである。
坂道を登り切った先にロータリー。そのカーブに面して、かつて地元住民に地球屋と呼ばれた店がある。そのように呼ばれたのは当時としては珍しい西洋風の洒落た佇まいが耳すまに出てくるあの地球屋そっくりだったが故であるが、いま志津男の目の前にかろうじて建っているそれを地球屋と呼ぶには大いに気が咎めるところである。建屋を構成する四方の平面その全てに余すところなく何やら得体の知れぬ植物の蔓や何某かがぺたぺたと這いずり回り、蔓と蔓の隙間からは経年劣化し色褪せ襤褸となった壁面がちらちらと見てとれる。敷地内の空いている空間にはテトリスよろしく、店主が拾い集めてきたのか誰かが棄てたのかあるいは既に集まったもの同士で交配し次々と子をなしているのかと思われるほどに日々指数的に増加する粗大ごみの類がただ一か所玄関と思われるところを除いてバベルの塔のように積み上がっている。志津男は地球屋の前の粗大ごみの合間を縫って自転車を止めると前カゴに乗せていた鞄を持ち、玄関アプローチ前の所々がぶよぶよと腐りかけた木製の階段を慣れた足取りで上り、玄関の扉の前に立った。そこで背筋を伸ばして軽く身なりを整える。もう何年も買い替えていないジャケットやパンツについた埃やクズを払い、皴を伸ばす。散髪代をケチってボサボサに延びた髪を手櫛で整える。最後に深呼吸をする。深く、吸って、吐いて、吸って───。志津男は、自身の膝がぶるぶると笑い出しているのに気づいた。もちろんこれは先ほどの全身を駆動しての立ち漕ぎの影響、もしくは先週この地球屋へ処女作を持って訪問した際の立ち漕ぎの筋肉痛が今になって志津男の膝関節その他諸々を揺るがしているといったところもあるのだが実際には極度の緊張、それがこの震えを齎している。この歳になって未だに緊張するとは。志津男は内心苦笑する。しかしこの扉の前に立てばいつもこうなのだ。幾度となく夜を徹して書き上げてきた処女作を鞄に詰めてこの扉の前に立つたびに、志津男は初めてそれを成したときと全く同じように、あるいは初夜を迎える生娘のように緊張し、陰嚢がみるみると縮こまるのである。大丈夫、落ち着くんだ志津男。今度こそ。今日こそは成して見せる。そうさ。きっと大丈夫。そうして、執拗に深呼吸を繰り返し、最後に大きく肺の空気を限界まで吐ききる。そして吸う。脳を全身を新鮮な酸素で満たす。しばし息を止める。黙想。カッと眼を見開いて扉をこんこん、こ
「あ、あ、おやまあ、あ、貴方ですか。待っていましたよ。さ、さ、さあ、入って。入って。そこは寒いですから、ひ、ひひ」と、狙いすましたようなタイミングで地球屋の店主・西次郎が扉を開く。しかし扉は玄関内側にびっしりと積る粗大ごみの山に阻まれて完全には開かない。その半開きの隙間から、血走り、異様に見開かれた次郎の二つの眼が志津男の姿を捕らえている。扉を開けた拍子に玄関内側のゴミ山が崩れて頂上付近に積まれた電子レンジのたぐいが滑落、ちょうど次郎の腰のあたりに直撃する。次郎は「コッ」と声をあげ、次いでシステマ特有の、痛みを軽減せしめると謂われる独特を繰り返す。しかしそのあいだも次郎の眼は志津男を捕らえたまま、瞬き一つしようとはしない。
このような次郎の異様な振る舞いを前に、しかし志津男の心は既にここにあらずといった様子で、意識の焦点の結ぶ先は自らの持つ鞄の中身、今日持ってきた処女原稿へと向けられている。志津男は直立不動のまま、その場で鞄を開ける。緊張と昂揚、臆病な自尊心と尊大な羞恥心。それらによって志津男の手はぶるぶると震え、原稿を出すのに暫しまごつく。掌は汗でじっとりと濡れている。志津男は原稿が滲まないだろうかといったことを心配する。ようやっと原稿を鞄から取り出し、半開きの扉から顔を覗かせる次郎へ向けて、早朝にしては幾分素っ頓狂な声量で志津男が告げる。
「しょっ、小説を書いてきました。約束です。貴方が最初の読者になっ」と、志津男が言葉の尻を見せるよりも早く
「勿論ですとも。ふ、お、おっ。さ、早速読ませていただきます。せっ、さあ、さあ、そこは寒いですから、中へ。中へ。どうぞ、どうぞ」と次郎が半開きの扉の隙間からにゅっと枝のような腕を伸ばし志津男の手から原稿の束をひったくると、くるりと背を向けゴミ山のあいだを器用に通り抜けて奥の部屋へと消える。志津男は玄関の前でしばし放心し立ち尽くす。そののちに中へ入ると、次郎とは別の部屋、台所へと向かう。
勝手知ったる他人の家、志津男が冷蔵庫の中の適当な具材、持参したうどんと卵、そういったもので手早く二人分のなべ焼きうどんを拵え次郎のいる部屋へやってくる。ゴミの山の向こう、暖炉の前で次郎がロッキングチェアに腰掛けて原稿を読んでいる後ろ姿がかろうじて見える。次郎は原稿の束をテーブルでトン、トン、そしてその四辺をさっと指で撫で丁寧に整えると、恐ろしく洗練された動きで、─一切の迷いなくその原稿を暖炉へとくべた。志津男は動揺するでもなくその一連の所作を後ろから黙って眺めている。持ってきた鍋焼きうどんをテーブルに置き、志津男は次郎の隣の椅子へ座る。そうして二人して暖炉の火を黙って見つめている。火がちろちろと二人の男の貌を、そこに刻まれた二十年分の苦痛と狂気を舐めるようにして照らす。やがて次郎は、暖炉の火から眼を離さずにぽつりと呟く。
「す、すいません、どこからか隙間風が吹いたのか、暖炉が原稿を食っちまいました。せっかく、志津男さんが書いてくださったのに、なんとお詫び申し上げればよいのやら───」
志津男もまた暖炉の火を見つめたままで答える。
「そうですか、それは仕方がないこと。また明日、新しいものを書き直してきます。今度は、もっと良いものを────」
これでもう幾千作目になるのであろうか、志津男の処女作が暖炉の火の中で身を捩る。
発端は二十年前に遡る。
当時この地球屋は西洋風・アンティーク調の珍しい建物として、また坂道の上のロータリーに面した立地と相まって、まるでスタジオジブリの耳すまに出てくる同名店舗のようではないかと、このあたりではちょっと話題のスポットとなっていた。店主・西次郎は耳すまを観て、そのなかに出てくるそのアンティークショップに、その店主の生き様に憧れ一念発起、早期退職金を携えこの地球屋を建てたのであった。しかしその実態としては開業当時よりこじゃれたアンティークショップというよりは、昭和の、それもゴテゴテしたようなスメルが匂いたつ怪しげな品々、どうということもなくただ古いばかりの家電、そのようなものばかり集まるリサイクルショップであった。次郎は夜ごと、あれ何かイメージしてたんと違うなあ、と首を傾げ、施工会社を拝み倒し金額納期その他大いに揉めた末に無理くり拵えさせた暖炉の前でロッキングチェアに腰かけ、焼酎を煽りながらウトウトと寝落ちするのであった。
ある晩秋の未明のこと。次郎は「ごめんください」という声と、ノックとに促されて目を覚ました。眼の前で暖炉の火がちろちろ、殆ど灰になって消えかかりながら燃えている。次郎は思わず寒気を覚える。次いで全身の、かちこちとした強張り。いかんいかん、また椅子に座りながら寝ていたらしい。次郎はぎこちなく伸びをして時計を見る。おやまあ、まだこんな時間ではないか。はて、さっきの声は気のせいだろうか───。こんこん。再びノックの音。次郎は訝しみながらも「はいはい」と椅子から立ち上がり喉に絡まる厭らしい痰をカーッ、ペッとティッシュに切ってから玄関へ向かう。果たして、玄関を開けるとそこに立っていたのは月島雫のごとき可愛らしい乙女、ではなく生まれたての小鹿のように震え、あるいは初夜を迎える生娘のように緊張した若かりし頃の月島志津男であった。寝不足なのか寒さのためかあるいはその両方を押して運動不足の身体に鞭打ちこの長い坂道を自転車で上ってきたためであろうか、その貌は青白く、さながら幽鬼のようであった。そして、物も言わずにただじいっと怖い眼をして次郎を睨みつけている。そして時折何か言いたそうに、ぱくぱくとその口が開いたり閉じたりしている。次郎は、うわっ、とんでもないものを見ちゃったな、と思いその場で固まってしまう。
しばしの沈黙の後でようやく次郎が声をかける。
「あ、あの、どういった御用で───」
「あっ、あの」と、未明にしてはかなり素っ頓狂な声量、そして随分と上ずった声で志津男が応じる。そうして鞄の中から原稿の束を取り出す。
「こっ、これ、初めて書いた、しょっ、小説、あっ、あなた、あなたに、読んでもらいたくて───」
ちょっとした百科事典を思われるような厚みの原稿用紙の束を見て、次郎は再び言葉を喪う。そして志津男を見て、ようやく気付く。ああ、この少年、確か以前一度、店に来ていた子ではないだろうか。あの時はたしか、「自分は小説を書いている」「いつか、書きあげたら誰かに読んでもらいたい」「そしてその役目は、このような素敵な店をやっている人こそ、ふさわしいに違いない」そして「俺は月島雫だ」などといった類のことを、うわ言のように繰り返していたような。その時もかなりこわいものが来たなと思ったが、まさか本当に持ってくるとは。あのときだって私はなるたけ曖昧な、聞いているのかいないのか分からない貌をしていたはずなのだ、まかり間違っても約束などしたつもりはないのだが───。
そこで次郎はハッとする。もしやこれは耳すまの、あのシーンそのままではあるまいか。そうだ、月島雫。彼女が地球屋に、初めて書き上げた小説を持ってくる、あのシーン。
突然の訪問にいささか面喰いはしたものの、西次郎とて耳すまに、地球屋に、その店主・西司郎に憧れ、三十余年のサラリーマン生活に見切りをつけこの地にて一国一城の主となったのだ。そして今、あの耳すまと同じように、いや実際には可憐な少女ではなく青白い幽鬼ではあるのだが、前途有望な若人がこうして処女作をわざわざ持ってきて来てくれたのだ。で、あればだ。ここはひとつ、若人を導く先達として、彼を寛容に迎え入れその処女作を読むのが私の役目ではあるまいか。少なくとも耳すまならそうなるはずなのだ。彼の持ってきた原稿もまた、耳すまと同じように粗削りで、所々が破綻し、お世辞にも読めたものではないのかもしれない。しかしその中から、煌めくような原石を、才能の鉱脈を見つけ出し激励し、そしていつの日か彼が大成するようそっと背中を押す。耳すまならそうなるに違いあるまい。もしかすると私がこの地に地球屋を開いたのも、この時この瞬間のためなのではあるまいか。最早これは運命。
この時の邂逅と判断を、以後次郎は何度となく反芻し後悔し泣き喚き、終いには酒に溺れ正気を失うまで繰り返すことになるのだが、それは後の話であった。
「おやまあ、貴方ですか。待っていましたよ。さあ、さあ入って。入って。そこは寒いですから」
次郎はこの若い少年を室内に招き入れ、暖炉の前におもむくとそばの椅子に座るよう志津男に促す。そしてテーブルの上に散乱している焼酎の瓶、グラス、つまみの残り滓の類を腕でこう、ガアーッと押して床に全部落とし綺麗に片付けるとそこに志津男の原稿を置いた。暖炉にいくらか新しい薪をくべ、再び火を熾す。生まれたばかりの炎が空気を喰らってぱちぱちと背を伸ばす。そうしてようやく、暖炉の前に陣取ったロッキングチェアに腰かけると、かしこまった姿勢を取り、いそいそと志津男の処女作を読み始めたのであった。
若かりし頃の月島志津男は自分が周りからどのように思われているのか、そして将来自分が如何程の人物になるのかといったことにばかり多感な中学生であった。彼は偶々金ローで放映された耳すまを観て、衝撃と感銘を受け、そしてある天啓を授かることとなる。それは即ち「俺は月島雫である」「俺はいつの日か小説家として大成する」といったような内容であった。ほどなくして志津男は自身の住むこの街の、坂道を登った先のロータリーに面して「地球屋そっくりのアンティークショップ」がある旨を知るや否やすぐさま行動に移った。
その年の九月は夏がうじうじと居残り続けいつまでも不快な暑さが残っていたのだが彼はその熱気の中を坂道を立ち漕ぎで登り大瀑布さながらに汗をどばどばと床や品物に落としながら空調の効きにいささかの不安が見られる地球屋店内をうろうろと周回し、自分が小説を書いていること、いつの日か書きあがったら誰か初めに読んでもらえる人を探していること、そしてこのような素敵な─繰り返すが当時より地球屋は建屋こそ西洋風な出で立ちであったが実態としては昭和村といった様相のリサイクルショップであった─店の店主に読んでもらえたら幸甚この上ないこと、それらを繰り返しそこそこの声量で述べ続けた。そうして店を去る際に次郎の様子をちらりと見れば、何と言うか幾分と含みのある表情でコクコクと頷いているように見える。少なくとも志津男にはそう見えた。そうとも。あの男もまた耳すまの西司郎であるならば、あのような含みのある表情の裏にはこれまでの人生経験に裏打ちされた深い慮りがあるに違いあるまい。俺の処女作を読み、そしてその中に隠された原石を見出せるのはなるほどあのような男をさしおいて他におりはすまい。耳すまの熱にそして自分はひとかどの人物に成るのだといったような若いころにありがちな無根拠な自信に冒された志津男に怖いものはなかった。もし怖いものがあるとすればただひとつ、それは己に何の才能もないことが明らかになることだけであった。
その夜から志津男は机に向かい、四百字詰め原稿用紙に物語を書き殴った。プロットも何もあったものではない、思いついたものを思いついた順から書き散らかしていく。書けば書くほどのめり込んだ。そして理解した。自分には確かに才能がある、と。そして今俺が書いているこの処女作は誠に素晴らしい、光り輝く宝石そのものである、と。クラスメートの凡百の徒を根こそぎ蹴散らしたのちこの処女作は文藝史に燦然と輝く一大叙事詩となるに違いあるまい、と。
志津男の筆は止まらなかった。若さゆえの熱がそうさせた。あるいはクラスでなにか厭なこと、恥ずかしいこと、馬鹿にされたように感じるたびにその熱は否が応にも高まっていった。俺らは奴らのようなくだらない連中とはものが違うのだ。俺は小説を書いているのだ。俺は月島雫なのだ。今に、今に見ていろ。
志津男はずぶずぶと執筆にのめり込んだ。能う限りの時間をその処女作に捧げた。最早物語は増改築を繰り返しかのウィンチェスターハウスもかくやと思われる複雑怪奇な建付となり、そして案の定
志津男はその原稿の束を鞄に詰めるとそっと玄関の扉を閉めて家を出た。自転車で坂を上った。玄関の戸を叩いた。そうして晩秋の未明、二人の男、あるいは二匹の虎が地球屋の玄関前にて相対したのであった。
無根拠に勃起した志津男の自尊心であったが当然のことながらこれはなまじ大きすぎる不安─自分は何者にでもなれないのではないか何の才能も持っていないのではないかただ歳を取るのではないかそしてそうその辺を歩いているしょぼくれたおっさんのようになるのではないか─の裏返しでもあった。自身が何者になるのかといった不安・期待で満たされるアンビバレンスな心はそれこそ思春期の頃には概ね誰もが持ち得るものであろうが志津男は人一倍にそれが強く、そして是が非でもひとかどの人間になりたい、そして周りの人間を、常日頃自分を軽んじているであろうクラスの連中を、なんとしても見返してやりたい、そのような闇い炎をちろちろと燃やしながらここまで執筆に勤しんできたのであった。
さて完成した原稿を携えて先述約束した通り─と思っているのは志津男ばかりではある─地球屋の店主のもとへやってきて、今まさに原稿を手渡そうとするこの瞬間、志津男の心の臓は張り裂けんばかりにばくばくと高鳴り膝は盛大に笑い原稿を掴む両の掌はローション相撲もかくやと思われるほどぬめぬめと発汗し志津男の処女作をふにゃふにゃに蕩けさせんとする。志津男の胸のうちに、これまで一度たりとも浮かぶことのなかった感覚がむくりと首をもたげる。ひょっとすると俺の書いたこの処女作はくだらない取るに足らないつまらないしょうもないクソの類のほうがよっぽどましな人に見せるのもおこがましい末代までの恥そのものなのではないかいやそんなはずはあれだけの時間と情熱をかけて書いたのだよしんば欠けたる点があったとしても処女作においては些細な問題であり真に重要なのは原石そう光り輝く才気が行間の隙間から否が応にも漂っていることなのだがしかし待てあまりに先を急ぐあまり大して読み返しもせずまた構想の段から今日この場に至るまで友人知人親兄弟親類近隣住民その他有象無象に一切見せず聞かせず読ませず唯々独りで書き上げてしまったのだなぜ俺はこの処女作が面白く才気あふれるに違いないなどということができるのだまさかまさかひょっとして全然面白くないのではないか俺には才能がないのではないか俺は月島雫ではないのではないかそんなはずはしかしもしそうだとしたらそんな恥ずかしいものをいきなり地球屋のおじいさんに持ってきてしまうとは第一このジジイは誰なのだ殆ど面識がないが何たる失態だ俺はこの人を失望させてしまうのではないかそれはまずいここはひとつこのジジイをブチ殴りハリ倒し原稿をもって遁走すべきなのではないかそうとも己が珠にあらざることがはっきりくっきり明白になってしまうくらいならばいっそ何もわからぬほうが。といったことを考えているあいだに処女作は志津男の手を離れ次郎の元へ渡ってしまった。
次郎に促され一度は座ったものの、志津男はすぐに椅子から立ち上がると部屋の中を落ち着きなく歩き回りむやみやたらに店内を埋め尽くす商品の類を触ったり持ち上げたり意味もなく「なるほどね……」などといじくりまわし、そして物の影から、次郎の死角から、次郎が己が処女作を読みふける様子をじぃっと見つめている。ごくりと唾を飲み込む。喉がからからに乾いている。パチリパチリとした音だけが静かな室内に妙に響く。
ほどなくして志津男は、次郎の異変に気づく。原稿を読む次郎は時折痙攣し、はあはあと荒く息をしだす。志津男はてっきりどこか具合でも悪いのかと室内をぐるりと回り遠巻きにその横顔を見る。ややっ。そんな。まさかまさか。しかしあの表情は。いやしかし。そんな馬鹿な。
次郎は若い時分より一般的な水準と比較しても、様々なタイプの小説を読んできた、そこそこの読書家と言える人間である。他人と比べて己が評論・評価が何らか特別秀でている価値があるとまではまあいわずとも、好き嫌いとは別にその作品のもつ文学的価値あるいは面白みについては少なくともその辺の有象無象より多少ものがわかるほうだという自認もあったしそれはおおむね外れてはいなかった。そして志津男が持ってきたこの処女作については、中学生が初めて書いた作品であるといったような特殊事情を勘案し多少下駄を履かせようともここは教育的観点から行間の奥に潜む原石を無理くり拾いあげる所存ではあった。そうして受け取った原稿の、その物語世界へと洋々と漕ぎだしたのだが、どうしたわけか、ほどなくしてそれは予想を遥かに超えた荒れ狂う魔の海、何人も寄せつけぬ難攻不落の絶壁へと姿を変える。当初志津男の若くどろどろと脂ぎったエネルギィをそのまま叩きつけたような荒々しいシャープペンシルの筆跡が単に恐ろしくド下手糞がゆえになかなか読みづらいだけなのでは、やれやれせめてもう少し綺麗な字で書いてもらいたかったものだなと心中苦笑する余裕さえあったのだがどうやら違う、根本的に何かがおかしい。字が下手なだけなのではない、読めない、読み進めることができない。次郎が懸命に一行一行を読み砕くたび眼に脳に有刺鉄線をぶすぶす挿し込まれているような感覚を覚える。これはあれだ。シンプルに。絶望的に。面白くない。つまんねーのだ。いやその言葉では言い表せないような恐ろしいもの。何なのだこれはどういう話なのだ何ひとつ筋らしい筋が見えてこない。それでも次郎は歯を食いしばって何とか読み進める。最早暖炉の火も、志津男の存在もその意識からは消え失せ、全神経を集中し作品世界へと何とか没頭しようとする。楔帷子のようなその行間を押し広げ、奥へ奥へ。全身の筋肉が強張り、そのために次郎は背を丸め、やがて肩で荒い呼吸を繰り返す。しかしその行間は今度は冬季エヴェレスト南西壁のように次郎が物語世界へ侵攻するのを断固として拒絶しセンテンスは互いが互いに一族のかたきとでも言わん勢いで前後左右の有機的な意味結合を拒絶し文字どもがバラバラにほどけ砕け散り一切の意味の表象を拒絶する。文字がセンテンスがそれら一切が次郎の懸命な努力を嘲笑いやがて一文字一文字が次郎の眼球の上を横滑りして流れ去るのはまるで流れ星のようである。いっそのこと流れたままどこかへ消えてくれたらどんなに気が楽であろうか。しかしどうだこの原稿の厚み、ちょっとした百科事典がごときこの重み。まだ開始して数頁を経ずしてこの有様だというのに。何人の理解を拒む物語は頁を追うごとに指数的に支離滅裂となり幾つもの致命的破局が渦を巻いているのだ。いや難解と呼ばれる類の文学作品も世の中にはあるのだし、この小説ももしやそういった類に才気を発揮しているのかもしれないと一瞬考えてはみるがどう贔屓目に見てもそうではない。行間の奥、物語の世界に沈み込めないのはどう考えてもそこに沈み込むほどの深さがないためである。浅ぇ浅ぇ。子供用プールもかくやと思われるほどにちゃぷちゃぷと浅いのだ。足首すら浸かれないほどの窪み。雨上がりのコンクリートにできた水たまり。仰々しく書き連ねられた言葉と裏腹にその結合はなんら物語世界を構築せず深みを齎さず、ただただ原稿のツラを埋めているだけなのだ。逆に何をもってしたらこんなことが可能なのだ。次郎はその季節に似つかわしくない、どろどろとした不健康で冷えた脂汗を垂れ流し、その横顔を見やる志津男が容易にそれとわかるほどにありありとした苦悶の表情─俺は今なんちゅうしょうもねーものを読まされておるのだ─を浮かべ、今はただ原稿を睨みつけるばかりだ。
しかし次郎もまた地球屋のおじいさんワナビーであった。俺は月島雫を導きたい、俺は耳すまの、地球屋の、あの店主・西司郎のようになりたい。俺は地球屋の西司郎だ、そうでなければ一体これまでの俺の人生は何なのだ。その一念だけが、次郎の両手に対してその原稿の保持を可能としていたのだが今まさに次郎の肉体はあるじの意思を裏切らんとし原稿を持つ手、腕、肩、腰、眼、脳そのすべてがぶるぶると痙攣している。やめろやめろ西次郎。お前は何者にならなくたっていい。ここでこうしてゴテゴテしたリサイクルショップをやっていればよい。おしゃれじゃなくていい。かっこよくなくていい。なにものでもない自分を受け入れてありのままに生きるのだ。そうだとも。彼の持ってきたこの原稿は絶望的につまらない。最早光り輝く原石といったレベルの話しではないのだ。独りよがりで、支離滅裂で、どこかで聞いたようなセンテンスのコピーアンドペーストの羅列。これ以上こんなものを無理くり読み進めあまつさえ「面白い」などと言った日にはお前はその肉体と精神に深い傷を追うことになるだろう。引き返すのだ次郎。それでも次郎は年老いた虎のように低くしわがれた唸り声をあげ背中を丸め原稿に顔をこすりつけるような姿勢を取る。もはや読んでいるというよりは原稿を舐めているといったほうが適当な見てくれだ。一方でそれを見ている志津男は恐怖のあまりぶるぶると震えている。志津男の中の尊大にしてなによりも臆病な虎が、自身が珠にあらざることが露見するその予感に怯え尻尾を丸めて震えている。まさかまさか、この俺が。この俺に限って、珠ではない原石ではない才能がない月島雫ではないというのか。嘘だ。あんまりだ。ああっ神様!
あるいはこの時互いに手を取り合い、この原稿がどうしようもない駄作であること、次郎は地球屋の西司郎にはなりえないこと、そしてまた志津男は月島雫ではないこと、そういったことを素直に認め、真摯な気持ちで一から出発できたのであれば予後も幾分具合が良かったのであろう。しかし二人の中の二匹の虎がそれを許さなかった。自分自身が何者でもないということを許さなかった。己が珠にあらざることを許さなかった。
手洗いを借りる、と次郎に告げ志津男はその場を離れる。洗面所で手を、そして顔を洗う。晩秋の水道水は痛いほどに冷たいはずだが今はそのようなことも気にはならない。原稿。俺の処女作。俺の原石。次郎のあの反応、あの貌。あれは絶望的なつまらなさに、はらわたが捩れたが如きものなのではないか。いやしかし彼はまだ最後まで読み進めてはいないのだ。ここから物語は加速度的に面白くなるのだ。俺の物語は───どうなるのだ? 俺はあそこに何を書いたのだ? 志津男が思い出せるのは夜ごと齧りつくように原稿を書いた自室の机、下を向きクラスメートの誰の顔も見なかった教室の机、行き返りのコンクリートの道、ただそれだけだ。その日々の記憶のなかであの四百字詰め原稿用紙に綴ったはずの渾身の物語だけがすっぽり抜け落ちて思い出せない。あれほど全身全霊を込めて書いたはずなのに。何一つ浮かび上がってこないのだ。志津男は洗面台の鏡を見る。そこにあるのは自分の顔のはずなのだがその時ばかりはどういうわけかまるで別人の貌のように見えた。若さ、才気そして可能性に溢れているとばかり思っていたその貌はまるで冴えない何のとりえもない長年の不摂生が突然おもてに吹き出てきたかのような歳不相応に半端な皴が刻まれた中年男性、青白く痩せこけた幽鬼のようである。志津男はその貌に恐怖し、思わず後ずさる。しかし恐る恐る鏡を見直せばいつもの通り、まだ何者でもない、若さと可能性に満ち、無根拠な自信と押さえようのない不安が浮かぶいつもの貌ではないか。疲れていただけだろう。志津男は気を取り直す。そうだとも、先ほどの次郎のあの反応も、単に俺の考えすぎなのだ。まさかまさか、この俺に限って何の才能もないなど。そんな馬鹿なことがあるはずはないのだ。俺はクラスの凡百どもとは違うのだ特別なのだ月島雫なのだ。そうでなければ、一体俺は何なのだ。
志津男が次郎のいる部屋に戻るとちょうど次郎が暖炉の火へなにごとかを投げ入れる姿が見えた。そののち次郎はロッキングチェアに深々と沈み込むように腰かける。原稿の束はどこにも見当たらない。志津男は次郎にその行方を尋ねた。実際のところ、その問いを発した時点で既に志津男は答えを知っていたのであろう。
「申し訳ない、志津男さん────」次郎が深く絞り出すようにして答える。
「────」
「なにぶん、施工業者には色々と無理をさせてしまったのだ。どこか、建付が悪いようなのです」
「────」
「隙間風が────びゅうっと吹いてきて────ほんの一瞬、眼を離したあいだに────」
「それで、俺の原稿は────」
次郎は黙ったまま、暖炉を指さす。ばちり。暖炉の中で炎が爆ぜる。志津男は全身の力がふわっ、と抜けるのを感じる。言いようのない虚脱感と同時に、心の一番奥底で志津男は深い安堵を感じていた。何ということだ。俺の渾身の処女作が、幻の大傑作かもしれないものが。原石かもしれないものが。これでは、俺に才能があるのかどうか、否、己が珠にあらざるかどうか、真相はわからないままではないか。何ということだ。そうだ、俺に才能がないなど。そうようなことが本当だったかどうか。まだ。いまだ、分からないのだ。そうとも。真相は暖炉の火の中で燃えているのだから。
志津男は自分でも驚くほどに冷静、そしてゆっくりと暖炉へ近づき、そばの椅子へ腰かけ、暖炉の火を覗き込む。その炎の中で、志津男の渾身の処女作が身を捩らせて灰になっていく。志津男も、次郎も何も言わない。二人の虎はただ静かにその炎を見つめている。
「まだ冒頭をほんの数頁、読み始めたばかりだったのだ、なんとお詫びしたらいいか────」
「───いえ、隙間風が悪いのです」
ちょっとした百科事典なみの原稿の束を吹き飛ばすような隙間風が悪い。自然現象であれば仕方がない。次郎に何の罪はない。あるとすれば先ほど暖炉に何を投げ入れたのか、それを問い詰めぬ俺もまた共犯であろう。そうとも。俺たちは共犯なのだ。互いに何者かになりたいという曖昧な希望だけを持ち、他人と切磋琢磨しようともせず、今こうして互いが互いに寄りかかり、次郎は地球屋の西司郎にならんとし、そして志津男は月島雫たらんとしている。そのために現実から眼をそらすことにしたのだ。志津男は、未だ定まっていない己が未来に賭けることにした。俺は月島雫なのだ。まかり間違っても月島雫が書き上げる処女作において、光る原石を何一つ感じさせぬ、読む者にその余りのつまらなさしょうもなさに致命の苦痛を与えかねぬ駄作などというものはあってはならない。そのようなものは存在しないのだ、そうとも、そんなもの、暖炉の火にでもくべてしまえばよい。
「また、書き直してきます────」
志津男はそう告げる。次郎の貌には、もしやまたあのようなつまらねーものを持ってくるのか頼む頼む止めてくれお前は俺を殺すつもりなのかそうなのかああそうなんだな畜生め何故俺がこんな目に、といったような含みのある複雑な表情が一刹那に浮かび、消えた。次郎もまた、若い志津男のなかの光る原石がひとりでに立ち現れるかもしれない、その僅かな可能性に賭けることにしたのだ。そうでなければ彼もまた、耳すまの西司郎にはなれないのだから。
やがて次郎が台所へ消え、しばしのちに手製の美味そうな鍋焼きうどんを伴って戻ってくる。二人はものも言わず、ずるずるとうどんを啜った。志津男は冒頭数頁とはいえ処女作を読んでくれた礼と、次の処女作はもっと良いものを書いてみせること、そして書き上げた暁には再び最初の読者になってもらいたい、そのような旨を次郎に告げる。次郎は多分に含みのある貌で頷いた。次郎の貌は窓から差し込んでくる陽光の角度のためか、十歳あるいは二十歳ほど一気に老け込んだようにも見えた。
それから志津男は処女作を書き上げるたびに自転車を漕いでは早朝真昼深夜平日休日問わず地球屋を訪れた。はじめのうち次郎はそれでも大真面目に、多少なりとも前の処女作より向上が見られるのではないか光る鉱脈が見られるのではないかと幽かな希望に縋り原稿に目を通した。そうして五分十分もすればああもう十分です分かりましたこれは本当に詰まらないです許してください助けてくださいといった貌になり、その詰まらなさしょうもなさに背骨は折れ曲がり身体を縮こめて眉間に皴を寄せ原稿に顔をひっつけるような格好でひぃひぃふぅふぅと荒い息をして脂汗を滝のように流し出す。その反応をみた志津男は頃合いを見計らって静かに席を立つ。ちょうど志津男が戻ってくるころには何処からともなく隙間風が吹きあるいはふと手が滑りあるいは眩暈でふらつきあるいは極局所的な地震が起きたかあるいは逃れようのない運命によって原稿が暖炉の火に呑まれた後である。原稿が炎に煽られてぱちりぱちりと身を捩るのを二人して眺める。そののち二人は鍋焼きうどんを食べる。次郎がほんの一時の不注意気の緩み建付の悪さによる隙間風の発生地震眩暈宿業その他諸々によって幾作幾十幾百目かの処女作を燃やしてしまったことを詫びる。志津男は再び、幾作幾十幾百目かの処女作のその冒頭だけでも読んでくれたことへの礼と次の処女作への意気込みをそして再び最初の読者になってほしい旨を次郎に伝える。次郎はもう顔面をキュビズムのようにして頷く。そうして冬が終わり、春が、夏が、そして秋がやってきて終わり、冬が来る。それから幾度も。幾度も。幾度も。
志津男が最初に処女作を持ってきたあの晩秋の日以来、年中を通して地球屋の暖炉の火が絶えることはなかった。それは志津男が処女作を書き上げてはその昂揚に浮かされ決して待つ、次郎の都合を聞く、あるいは推敲を重ねるといったことをせずにすぐに地球屋を訪れるためであった。そしていつ志津男が来てもいいように、いつでも処女作を火にくべられるようにと、次郎は真夏の真っ盛りであろうとも決して暖炉の火を絶やすことができなかった。地球屋の室内は年中、うだるような熱気と独特のすえた匂いを放つようになりそれまで僅かながらにいた客も去っていった。次郎の酒の量はみるみると増えていった。
志津男が二十歳を迎えたころだろうか、そのころには次郎は志津男が眼の前にいようがいまいが関わりなく、最初の数頁、最初の数行に目を通すや否や原稿を暖炉の火へとくべるようになっていた。その速度練度の向上だけがこの二十年間の二人の間における向上とも言えた。それでも二人は止まらなかった、止められなかった。一度でも負けを認めてしまえばそこで終わりなのだ。その時点で自分たちが珠にあらざること、何者にもなり得ないこと西司郎でないこと月島雫でないことが確定してしまうからだ。二人はなによりもそれを恐れていた。
そして二十年が過ぎた。
志津男と次郎は暖炉を目の前にしてずるずるとうどんを啜っている。今日の具材はどこから生えてきたのか分からぬ豆苗のごとき草─台所の前の窓の際のよくわからぬ物陰から生えてきており、志津男は当初おやこんなところに豆苗があったのかと思って鍋に入れたが口にした途端その何とも言えぬ噛み応えと苦味からこれは建屋の外を覆う蔓の類なのではないか? と考えた─と、生温い冷蔵庫の中にあったギョニソであろうか卑猥な色をした棒状のものが一本、穴の開いている灰色めいてかさかさの棒状のものが二本。志津男の持ってきた卵がめいめいの鍋に一個ずつ。次郎はびくりと時折痙攣したように跳ね上がり、カクカクと震えそのたびにうどんが汁が口からぼたぼた零れ落ちる。「す、すいませんねえ」などといい傍らの焼酎をとくとくとくとくと自らの鍋に注ぎ、注ぎ終えるとそのままラッパ飲みで残りを飲み干した。じきに次郎の目がとろんとして震えが収まる。次郎は非常にゆっくりとした動きになりそのままとろとろとうどんを啜りつづける。
「あ、あんたの持ってきてくれた、げ、原稿……しょっ、処女、処女作、も、も、申し訳がない、隙間風が、こう、びゅぅーっ、てな具合で。だ、だ、暖炉のやつ、やつが、あいつ、あいつが食っちまった。これじゃあ、傑作かどうか、分かったもんじゃあ。ねえ? いひ、ひひ」
分かっているとも。あれが傑作だったかどうか。俺が珠にあらざるかどうか。それは未だに分からないのだ。燃えてしまっては仕方がない。俺の原石が、俺の珠が、ぱちりぱちりと燃えている。もう何度も、何度もこうして、俺は見送っているのだ。俺の才能を、若さを、時間を、可能性を、原石を、そして俺そのものを。西次郎もまた然り。
俺たちはもう後戻りできないのだ。進むしかない。しかし、いったい何処へ?
うどんを食べ終えた次郎は暫くのあいだ、暖炉の火を見つめロッキングチェアを前後へゆらゆらと揺らしていたのだが、そのうちに大きな鼾を立て始めた。志津男は二人分の食器を片付けて地球屋を辞する。最後に暖炉を覗くと火はすっかり燃え尽き、処女作は綺麗な灰になっていた。
少し長居をしてしまったのだろうか。坂道を下る帰り道には通勤するサラリーマン、犬の散歩をする老人、朝練に向かう学生の小集団などがちらほらと見られ志津男は何かに責められているような居た堪れなさを感じる。そうして追い立てられるように下り坂を急いだのが仇となった。行きしなも断末魔のように錆びついた悲鳴をあげていた自転車はちょうど坂を下りきったところの信号手前で往年のディズニーアニメーションさながら一コマ打ちの滑らかさでバラバラに砕け散り、志津男は危うく顔面から地面に衝突しそうになる。信号待ちをしていた中学生の小童どもが驚いてこちらを見、「大丈夫ですか?!」と柑橘類のように爽やかな声で心配してくる。志津男は曖昧に視線を泳がせて「ああ、いや、ええ、大丈夫……快適です」などとしどろもどろに答える。中学生どもは志津男から視線を逸らすと仲間内でのみ通じる言葉で何事かをこそこそと呟いては噛み殺した笑い声をあげ、やがて横断歩道を渡って消えていく。距離が離れても甲高い笑い声が響いてくる。あいつら、俺を馬鹿にしているのではあるまいか、そうに違いない。この糞餓鬼どもめ。志津男は下を向きぶつぶつと呪詛のようなものを吐き散らしながら自転車の骸を引きづってコンビニへ立ち寄る。週刊誌を手早く立ち読みし、一番安い菓子パンの類、缶コーヒー、それと煙草を買う。店員が慣れていないのかなかなか煙草の銘柄が伝わらずにもたもたと時間がかかる。後ろでサラリーマン風の男─志津男は少しばかり歳上であろうかいやこのところスーツを着ている輩はどいつもいつも歳上に見えるのだ─が舌打ちをする。その舌打ちで動揺して志津男は小銭をぱらぱらと床にこぼしてしまう。サラリーマンが再び舌打ちをする。志津男は会計を済ませると品物をひったくるようにして店を出る。店を出てからサラリーマンに、店員に、先ほど信号で鉢合わせた中学生どもにそれぞれ等しくここには書けぬ表現で悪態をつき呪詛の言葉を吐き散らかす。
老朽化著しい団地にはエレベーターがないので志津男は息を切らしながら階段を上っていく。志津男が自宅前の廊下へ差し掛かるのと、ちょうどお隣の、ぴしっとしたようなスーツを着た男と出勤するタイミングが重なる。廊下をすれ違う際に「おはようございます」と爽やかに声をかけられ、志津男は首をふにゃふにゃと動かして「ハヨザッス」とだけ小さく呟く。志津男とすれ違った後でその男が首をかしげる。
志津男はそそくさと自宅のドアを開け滑るようにして万年床へと潜り込む。そして布団の中で暫くのあいだ芋虫のようにもぞもぞとしたのちに虎のように四つん這いになり背を丸め枕に顔を枕に押し付けて咆哮した。ひとつ、ふたつ、みっつ。四つ目のそれで漸く収まる。志津男はとろとろとまどろみ始める。まどろんだ脳で反芻する。
畜生。今日も駄目だった。あれだけ書いたというのに。いや分かっている。あんなアルコールですっかりやられたジジイにいくら見せたところで意味はないのだ。どうせ見せるならもっとほかの誰かに。そうだ、例えばインターネットで公開するのはどうか。いやしかしげに恐ろしきは盗作。俺の処女作のうち原石の光り輝く部分だけをめざとく拾い集め、適当に切り貼りして口当たりのいいテキストとして人気を得る不逞の輩がいるやもしらぬ。それでなくとも俺の頭の中を覗いて上手いこと書いたようなネットノベルが書籍化するのをもう何遍も見てきたのだ、盗作だろ盗作。いよいよこの部屋に監視カメラその他の類があり俺の執筆活動を誰かが監視している可能性を真剣に考えたほうがよいかもしらぬ。いや盗作云々を差し置いてもインターネットの何処とも知れぬ馬の骨、ものの価値も分からぬような有象無象にあることないこと言われコテンパンにのされた日にはいよいよ俺の精神が持つまいて。では出版社に持ち込み第一線の編集者に読んでもらうというのはどうか。彼らはプロであるからして俺の粗削りな処女作に秘められた光る才能の鉱脈をやすやすと見出すに違いあるまい。いやいや待てよしかしそれは流石にハードルが高すぎる。第一面識もないようなプロの下手をすれば年下の編集者にズバズバと処女作の本質的でない枝葉末節の表現構成その他の欠点をあげつらわれた日にはショックのあまり断筆・血の小便を垂れ流して廃人になること請け合いだ、それは良くない。何せ俺の原石、俺の処女作なのだ。念には念を入れて、読ませる相手は慎重に選ばねばなるまい。ものの価値その本質を鋭く見抜きそれでいて原石と関係のない諸々の粗に手心を加えられるような人物。更に言えば俗世との関わりはなるべく少ない人間のほうが盗作の恐れもなくふさわしかろう。となると地球屋のあの爺。やはり彼をおいて他にしかあるまい。そうとも。彼は信頼できる。なぜなら彼は俺であり俺は彼なのだ。彼は西司郎で俺は月島雫。俺たちは二人で耳すまなのだ。いやあるいは李徴子だらけの山月記なのか? 俺たちは一体いつどこで道を誤ったのだ。己が珠にあらざることを恐れるあまり、俺たちは終わりのない無明の闇へと突っ込み遂には虎そのものになってしまったのではないか。最早軌道修正を図ろうにもその気力すらない。一体なぜこんなことに。俺は、俺たちは、ただ何者かに、誰かになりたかっただけだというのに。うう。うう。ううう。
そのうちに夜通しの執筆、地球屋への巡行、その他有象無象の気疲れがどっと出て志津男は眠りにつく。志津男はいくつかの夢を見た。中学時代の夢。作家となって忙しく執筆に明け暮れる夢。そして人里離れた山奥にいる二匹の虎の夢。
耳をすませば2(あるいは山月記2) 惑星ソラリスのラストの、びしょびし... @c0de4
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