第43話 散歩

 診療所の明かりが見えた。

 扉を叩くと真夜中にも関わらず、彦一はすぐに出てきた。

 胸が苦しくなるほどの切なさを感じる。


 そこで、ぷつりと豪切の意識が途切れた。




 ——昭和四年。

 八枝子は、片腕を落とされて逃げてきた夜、彦一によって応急処置を施され、研究所である洋館での手術によって、一命を取りとめていた。

 この件で村人と争うことはしなかった。


 そして十七歳になり、赤子を産んだ。

 凌辱の末にできた、誰の子かも分からない赤子。

 彦一は堕胎を進めたが、八枝子はがんとして受け入れず、この研究所で出産した。


 ここにはすでに、予定通りではなかったが、ドイツ人の医師一名と、同じくドイツ人の医療研究者一名が駐在していた。


 彼らの同意のもと、今では彦一もここに住み込み、診療所へ通った。八枝子も臨床研究の被験者であり、入院患者としてここで暮らしていた。


 村の人間で、ここに近づく者は誰もいなかったが、診療所には、変わらず患者は訪れてくる。

 平穏な毎日を取り戻していく。

 だが、八枝子の症状は進行していた。

 長く伸びた頭髪のほとんどは白髪となり、足の筋肉も痩せ始めていた。


 そしてそれ以上に気がかりなのが精神状態だった。

 あきらかに躁鬱そううつを繰り返している。

 一日中ぼうっと寝転がっていたかと思うと、絶え間なく陽気に話した。その時は必ず、生まれて間もない赤子に、呪詛の話を聞かせていた。

 止めようとすれば、発狂にも似た攻撃性を見せた。


 赤子に名前すら与えようとしない。女の赤子であるにもかかわらず、『坊や』と呼んだ。

 躁鬱のどちらともとれない時もあり、その時は間違いなく以前の『八枝子』だった。


 以前の、タレた目が可愛らしく、柔和な笑顔を見せる少女。

 この一年後、彦一と八枝子は婚姻を結ぶ。




 ——昭和七年。

 呪詛について、ドイツ人医師たちが加わって早々に、これを早老症ではないかと疑った。八枝子は、それ特有の症状らしかった。

 だが、それは一部の症状に過ぎず、検査でも動脈硬化、コレステロールなどの脂質異常もなく、それを示す結果が出なかった。

 結局、これまでの検査で、より不明なものになってしまっていた。

 

 ここの機材では調べようがないのだろうか、それとも——いや、呪いなどあるはずがない、と彦一は頭を抱える。

 呪詛——それが彦一の心に重くのしかかる。


 八枝子が呪詛を受けてから五年、これまでに呪詛を受けたものは少年が二人、少女が一人の計三名いた。

 少年のうちの一人は、八枝子が隔離されていた昭和三年に呪詛を受けた。やはり、彦一が村の人間に悟られないように治療しようと計画したが、悲観した両親が少年を道連れに一家心中してしまった。


 二人目の少年は去年、診療所を受診することはなく、彦一が情報を得た時には隔離されてしまっていた。そして、たったひと月の隔離で儀式の生贄となった。

 三人目の少女も去年の暮れ、呪詛を受けたことが発覚したその夜に自殺した。



「おとうさん」

 坊やが足にしがみついて明るく笑う。

 彦一も優しく微笑み、小さな頭を撫でる。

 その頭髪は男の子のように短かった。伸びてもすぐに八枝子が切ってしまい、ガタガタの髪の毛を彦一が直す為、余計に短くなる。

 名前もなく、服装も、言葉づかいも男の子として育てなければならない坊やを、彦一は不憫に思うも、否定しようものなら八枝子は狂ったように暴れ出し、近づくことさえできなくなる。


 お母さんは? と訊かれた坊やは、フローリングの床に視線を落として「んー、おやすみ中」と、つまらなそうに言った。

 言ってすぐに彦一の顔を見上げてニコッと笑う。

「あそぼう」




 ——昭和九年。

 サク、サク、と踏みしめるたびに、草が小気味よい音を鳴らす。

 洋館のそばの広場を八枝子と坊やが手をつないで歩いている。八枝子の体調が良く、今日のように天気のいい朝には必ず二人で散歩した。


「もうすぐだね、赤ちゃん」

 坊やが八枝子の大きくなった腹を見て言う。

 三度みたび、八枝子は妊娠していた。彦一との間にできた子だ。

「触ってもいい?」と手を広げる坊やに、優しく微笑んで「どうぞ」と、うなずく。

 坊やは嬉しそうに、わあ、と口を開けて腹に触れ、耳を当てた。

「おかあさんの病気、早く治るといいね」

 そう言って顔をあげた坊やはギョッとする。

「これは病気ではないのよ」と、見下ろす八枝子の目は鋭く、いつものように呪詛の話を始めた。

 そして、「だから治ることはないの。でも、たとえ死んでも守るからね」と言った。

 

 坊やは怖くなり、ぎゅっと繋いだ手に力を込めたが、逆に強く握り返された。

「痛いっ」と、また怒らせてしまったのかと不安になるが、八枝子は見ていなかった。その視線の先には、こちらを驚いた表情で見ている村の男が一人。男はすぐに踵を返し森の中へ消えた。

「見られた!」

 八枝子は坊やを引きずるように洋館へと駆け出した。

 

 ——八枝子は自室のベッドに仰向けになり、息を荒げながら天井を見つめている。

 枕元では狼狽えている坊やに、ここには彼らは来ないから大丈夫、と彦一が小さな頭を撫でていた。


「守るからね、僕が守るからね」弱々しくも、坊やは言って八枝子の腕をさする。

 八枝子はそんな坊やを、じろりと睨み「触るな」と、しゃがれた声で突き放した。

 ビクリと坊やは肩を震わせて、何も言わずに顔を伏せ彦一の足元へと下がった。



 黄昏時たそがれどき、外の騒がしさで、昼のうちから眠っていた八枝子と坊やが目を覚ますと、その部屋に彦一が険しい顔で飛び込んできた。


「村の人間に取り囲まれている——」と。

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