第44話 体現——松宮

 ひやあああああ! 奇声をあげて八枝子は飛び起きると、坊やの手を取り、部屋の中を右往左往し始めた。

 彦一は隠れていなさいと残して、入ってきた時と同じ勢いで出ていった。

「奴らが来た! 隠れなければ、逃げなければ! ここはだめだ」八枝子は坊やを連れて部屋を出て廊下に並ぶ扉を一つ一つ開けていき、大きなクローゼットを見つけると、そこへ坊やを押し込めた。

「おかあさん、待って、僕、おかあさんを守——」

「黙ってここにいろ!」

 しゃがれた怒鳴り声が、より一層の恐怖を与える。

 坊やはコクコクとうなずき、身を引いた。


 研究所の前では、彦一たち三人と村の人間との小競り合いが起きていた。男も女も、大勢の村人が集まっていた。

 口々に言う、「呪われた女に子供がいた!」「このままでは言い伝えどおりだ!」「親子を見た!」「村が滅びてしまう!」「これは伝承だ!」「見過ごすわけにはいかない!」と。

 誰もがその顔を怒りの色に染めて。


 言い伝えとは何一つ符合しない。だが、それに耳を貸す者は一人もいない。

「逃げたぞ!」突然誰かが叫んだ。


 八枝子が研究所から逃げた。

 村へと続く道を下る。長くうねった白髪をバサバサと乱し、青白い皺だらけの顔を歪ませて。

 白い浴衣から出る、筋肉の落ちた手足も青白く細いためか、大きな腹がより大きく見えた。

 この状態で走れるわけはなかった。


 後ろから人々の怒号が聞こえる。見る見るうちに近づいてくる。

 重い腹をさすりながら、恐怖にあえぐ。

 八枝子は振り向く。山道を埋め尽くす人、人、が目を血走らせた鬼のような形相だった。

 

 八枝子は絶叫する。


 ——そして捕えられた。



 ——「この子は、坊やか?」

 松宮はクローゼットの扉を閉めた。

 閉めたくはなかった。確かめたかった。だが、体の自由はなかった。


 その部屋を出て、階段を下りる。

「ここはついさっき豪切氏と別れた洋館の二階か……崖の上で斗南氏と一緒に、女の胸にあのでかいハサミを突き刺したはずなのに、何が起きたんだ?」

 ぶつぶつと呟きながらも、これは女の過去を、音もなく、声も聞こえないが、バーチャル・リアリティのように擬似体験しているんだと、どくどくと恐怖をあおる鼓動を抑えて、冷静に分析していた。


 体の動くままに洋館の木製のドアを開けて山道を下った。

 村の人間たちが追いかけてくるのが分かる。


 肌を見るかぎり、体は自分のもののようだが、意思とは無関係に動き、さらに自分の意識とは別の意識が混ざっているような、気持ちの悪い感覚もあり、『障り』の時とはあきらかに違った。着ている服も、着物か浴衣のようだ。

 折られたはずの右腕は、前腕ぜんわんの途中から失くなっているが痛みはなかった。

 そしてどうやら、妊娠している。

 なぜ追われているんだ?

 臨月の腹をさすりながら、さらに思考をめぐらせていた。


 ここで松宮は振り向く。山道を埋め尽くす人、人、が目を血走らせた鬼のような形相だった。

 

 松宮は絶叫する。


 ——そして捕えられた。


 両脇から抱えられて山道を下りていく。何の抵抗も見せないまま土蔵裏の広場に連れてこられた。

「ここは儀式の場だ」と松宮はごくりと唾を飲み込んだ。


 広場にはさらに二、三十人の村の人間たちが集まっていて、すでに儀式の用意は整っていた。

 掘られた穴。その深い底の、ひつぎのような木枠の上にも数人が待ち構えている。

 その穴をまたいで立つ人型の木組み。これは優に三メートルはあった。


 こいつら、本当に生き埋めにする気か?

 全身で抵抗しているようだが、顔を殴られ、その上、二人の男に抑えられてはどうすることもできなかった。

 幻覚だというのに、この殴られた痛みは感じるのかと、松宮は苦しみ悶えた。

 そのまま穴の中へ引き落とされると、棺に無理やり押し込められ、蓋がされた。


 どくん! と、一つ心臓が跳ねた。

「いや、やめて! あああ、出して! いやああ」

 突然、考えてもいない言葉が口をついて出た。


 落とされる間際に見た村の人間たちの顔は、男も女も狂気に満ちていた。


 どくん! と、また一つ心臓が跳ねた。

「ううあ、ああ出せ、ここから出せ」

 冷静でいたはずの松宮の心に、憎悪が、どす黒い殺意が湧き上がってきた。


 真っ暗闇で、周りは木枠で囲まれている——。

 これは……もしかして、斗南氏の言っていた夢と同じなんじゃないか?

 考えていると、「あああああ、きさまら! 出せ! ここからぁ、うぎあああ」

 松宮は、冷静に思考したかと思うと、叫ぶ。これを繰り返していた。

 まるで人格が分裂したように。

「この生き埋めの状態に、息苦しさと鼓動の激しさはある。しかし、これは現実ではない! 怒りはないし、恐怖もないはずだ。それなのに、何かが湧き上がってくる——」

 声を荒げる松宮の目は虚に、何を見るでもなくさまよっている。


 頭がおかしくなりそうだ。口が勝手に言葉を発する。

「はあっはあっ! あああああ、きさまら、きさまらああ! 憎い! 憎い憎い憎い憎い——だめだ! そうじゃない、考えろ! できるだろう、私なら!」

 松宮は自分自身を鼓舞する。


(落ち着け、考えろ、考えろ! あの女……そうだ、『覗いているな』と言っていた。ならば心霊ナビの時と同じで、女もこちらを見ているはず。何がしたいんだ?) 八枝子の思惑を考える。

 私をどうしたいんだ?


 何だか——眠い。


 だんだん意識が薄れていく。

 ああ、そうか、生き埋めにされたが意識を失いそうなのか……。


 もし——幻覚の中で、命を落とし、たら……どうなるんだ? 

 ……松宮の意識が途切れかけた時、突然目の前が明るくなった。

 棺の蓋が外されたのだ。強い照明に目を細める。


 彦一たちと、連絡を受けて来た数名の警察官に助けられた。だが、一様にその者たちの表情は驚いているようだ。

 松宮は上半身を起こして、その視線の先を見る。

 今まで自分の声以外、他の音も声も聞こえなかったこの幻覚に、激しい鳴き声が響きわたった。


「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」


 松宮は愕然がくぜんとする。

「この女、この時に出産したのか!」

 そこで、ぷつりと松宮の意識が途切れた。

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