第29話 松宮愛美
体調を気にする豪切に、紫桜は問題ありませんと答え、札を手にし、念唱を唱え始めた。
邪魔な奴らめ——頭の中に響く八枝子の声に斗南たちは身構えるが、反応したのは彼らだけではなかった。
おおむ……おおむ……不気味な重い声が彼らの周りから聞こえてくる。
それぞれが手に持つ懐中電灯で辺りを照らすと、地面からその不気味な声を発しながら、黒く艶やかなゼリーの塊のような何かが出てきている。
その『何か』がまるで蛇のように鎌首をもたげる。
「斗南殿と松宮殿は車に! しえは黒いのを頼む! 足場が悪い、気をつけろ」
と、豪切は一直線に八枝子に向かった。
それに反応して八枝子も動く。背を丸め、地を這うように真っ直ぐ。
豪切もブツブツと念じながら——八枝子との距離が一気に縮まる。
「ついはっ!」気合いの声を上げて打った右手に持つ札が、八枝子の右肩を破裂させた。
⁉︎ 豪切は目を見開く。
八枝子は怯むことなく、左手で豪切の脇腹を捉え、軽々と投げ飛ばした。
受け身も取れずに地を転がる豪切は右脇腹を押さえ、苦痛にあえぐ。
「ああ、先輩!」斗南が叫ぶ。
「いいから早く車に乗れ」と急かす豪切に、斗南は車のドアが開かないことを伝える。こっちも駄目だ、と焦り、松宮が白いミニバンのドアノブをガチャガチャやっている。
どちらの車も緊急時を考え、ドアはロックせず、キーも挿したままのはずだった。
「斗南様、松宮様、これは怨みのかたまり! 怨霊です。触れられてはいけません、逃げて!」
札を手にした紫桜が叫び、怨霊たちを牽制はしているものの、その数は徐々に増えていく。怨霊の動き自体は鈍く、それは救いなのだが数が多すぎる。
腕を振り回し、怨霊たちを振りほどきながら加賀島が来るも、やはりドアは開かない――それどころか、突然! 二台の車のエンジンが始動し、車のヘッドライトが点灯した。
車の異変に騒ぐ松宮たちを気にかけながらも、豪切は八枝子の相手で手一杯だった。札を持つ手が当たらない。多少当たってみても、触れた部分に一時的に損傷があるだけで、直ぐに回復してしまう。
この女、何かがおかしい。豪切は自分が相手にしているのが霊体ではないのでは、と錯覚する。これではまるで――、
「妖怪の類いではないか」
八枝子を前に豪切はそう口から漏らし、呆然と立ちつくしてしまう。
無人のまま二台の車が同時に急発進し、黒のセダンは右へ曲がりながら前進し、白いミニバンはバックし、そのサイドミラーに弾かれた松宮が転倒した。
「松宮先輩。あ、豪切先輩——」
白いミニバンはバックしたまま、怨霊を数体蹴散らしながら加速する。それを目で追った斗南が叫ぶ。
「避けてください!」
びくりと反応して豪切が振り返る、赤いテールランプが迫る。
かろうじて豪切は避けた。
「そんな馬鹿な」結界を張っている車を操られ驚愕する。
その車は八枝子の横をすぎるとすぐ後ろで止まり、激しく空ぶかしをしている。眩しいヘッドライトの光が豪切と八枝子の長い影をつくった。
目を細めながら豪切は八枝子と睨み合う。
殺し……皆殺し……坊や……。悪意が意識に流れ込んでくる。
八枝子の視線の先には、怨霊に追われて逃げ惑う斗南が放つ、白い光があった。
「草が邪魔だ」松宮は懐中電灯を拾い、這いつくばり、車に弾かれた時に落とした眼鏡を探していた。
紫桜と加賀島は、黒のセダンの突進を避けることができたが、息つく暇もなく怨霊に追われている。
立ち止まっている暇はなかった。
バラバラに逃げ惑い、その場は混乱を極めた。
「あった」松宮はようやく眼鏡を手にしたが、その左腕を怨霊に掴まれてしまった。
ぬちゃり、と嫌な感触が腕にまとわりついてくる。
氷のように冷たい。しかし、そう感じたのはほんの一瞬だった。
「う、ああああああああああ!」
左腕が焼けるように熱い!
「あああ、あああ」
これまで気がつかなかった異臭が鼻をつく。
「は、あ、何だ? 何か、ああー」
ドロリとした意識が、声が、頭の中になだれこんでくる——「助けて」「うちの子を助けて!」「違う! 違う!」「燃やせ!」「許さない」「生け贄を殺せ!」「男は殺して埋めればいい。女は——」
バシャリ。松宮の左肘まで侵食していた怨霊が紫桜の念唱で爆ぜた。
「松宮様しっかり、意識をしっかり保って」
間をおかず、車のヘッドライトの光が二人を照らす。
ふらりと、八枝子が向きを変えて動き出した。
「斗南殿のところには行かせないぞ」
豪切が札を二枚手にし、一枚は額に当てながら念唱を唱えて駆け出す。が、八枝子の後ろでエンジンをふかしていた白いミニバンも急発進で向かってきた。
予想通りと、ボンネットを、フロントガラスを、ルーフを、ダンダンダンと三段跳びで豪切が跳んだ!
「ついはっ!」空中で突き出した左手から札が一直線に飛び、八枝子の胸を直撃した。
八枝子は驚きの表情を見せ、自身の胸に開いた穴を凝視している。そこにさらに追い討ちをかける。
が、すんでのところで八枝子は跳ね上がり、飛んだ——。
「くそっ」見上げる豪切が悔しさを吐き出す。
八枝子は荒々しく口の両端から息を吹き出し、中空から見下ろしいた。
眩しさに、我にかえった松宮は車をかわすことができた。紫桜も逆へ飛び退いた。
二人の間を引き裂き、黒のセダンは突っ切るが、八枝子が豪切の攻撃を受けていたためか、あきらかに速度は落ちていてそのまま崖を斜めに登り、横転した。
「松宮様?」紫桜は起き上がり、いたであろう場所を
よろけながらも松宮は追っ手から逃れるように歩き回っていた。懐中電灯もヘッドライトも落としてしまったが、立ち止まるのが怖かった。
服は左肘から下がボロボロに崩れ落ちていて、軍手もゴム手袋もなくなり、剥き出しになった腕は赤黒く変色していた。「黒いのはどこだ? 眼鏡かけてるよな? 暗い」意識が朦朧とする。周りを確認するが、近くで白い光が移動していることしか分からない。
そして、ひときわ明るい車のヘッドライト。
それがいま、自分に向かってきていることは分かった。
白いミニバンだ。
「こんなところで死んでたまるか!」
しかし、意識が、身体が、思うように働かない。避けられない。
なぜ——。
立ち止まってしまった。立ち尽くす。その姿を強烈な光が明るく照らし出した。
鈍い音とともに車の片方のヘッドライトが砕けて消えた。
はね上げられた体はさらにフロントガラスを割って地面に叩きつけられた。
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