第10話 来訪者

 ——すでに、三階に豪切たちはいなかった。斗南はそのままその教室を通り過ぎて、北階段の手前で伊予乃と対峙していた。


 お互い、別棟で浴びた血液のような赤黒い液体と非常灯の灯りしかない薄暗さのせいで、汗をかいているのか怪我をどれだけしているのかも判別できないが、斗南は大きく肩で息をして、疲弊しているのが見て取れた。伊予乃もまた、平然としているように見えるが、少し動きが鈍くなっていた。あの不気味な笑顔もなくなっている。


 その表情はもちろん、すべてが伊予乃とは違った。ただ、おかしくなっているとは思えなかった。身体を乗っ取られているのか? これが憑依というやつか? 斗南は考えれば考えるほど、自分ではどうにも出来ないことを悟るだけだった。


 伊予乃が無表情のまま、じりじりと迫ってくる。

 追い詰められ、下り階段を背にした斗南は必死に声をかけ続けるが、その声は届かなかった。

 次の瞬間、奇声をあげて伊予乃が跳ねた。


 反射的に、首元に伸びる両腕を掴むことができたが、やはりその力は女子高生の細腕からは想像できないほどに強く、押さえ込むことなど到底できなかった。

 掴んでいるだけで精一杯だった。

 二人は別棟一階での攻防を再現するように倒れ込んだ。

 

 すんでのところで落ちずにすんだものの、斗南の肩から上は階段にはみ出している。

 そのまま馬乗りになる伊予乃に、身動きの取れなくなった斗南はなんの抵抗も出来ずに首を絞められた。


 どこからともなく、ゆらゆらと白いモヤが斗南の体にまとわりついてくる——、伊予乃は気にも止めずに、さらに両腕に力を込めて言う。

「あいつらに見つかれば、容赦なく暴行されるのよ。女を玩具としか考えてないのだから。おかあさんが殺してあげるから安心して」

 つぶやくように言うこの声も、伊予乃のものではなかった。言っている事の意味すら理解できない。

 苦しい——内から恐怖が湧き上がる。死の恐怖。

 力を振り絞り最後の抵抗をするも、伊予乃の腕を押し返すことはできなかった。


 しかし、力尽きようとしていた寸前、首を締める力が弱まった。

 斗南の顔を覆った白いモヤが歪み、形を変え、幼い子どもの顔に変化していた。


「坊や?」


「んんんー!」機を逃さず、斗南が体を大きく反った——。

 まるで巴投げを受けたかのように、伊予乃が勢いよく前のめりに階段を落ちていく。しかし掴まれ、斗南もまた引きずられるように一緒に踊り場まで落ちた。


「痛、くっ」

 体の心配もよそに、斗南はすぐさま起き上がり、二階まで駆け下りて踊り場を見上げた。

「はあ、はあ……マチ? マチ、大丈夫か?」

 

 ここからでは上の踊り場の様子は見えない。声をかけるが返答もない。

 ごくりと喉が鳴る。

 不安になり、一呼吸おいて一歩、階段に足をかけた。

 とたん、ひょっこりと伊予乃の首が階段から覗いた。


「何で逃げるんだい? 言っているだろう。は殺される、酷い仕打ちを受けて苦しみながら死ぬんだ。だから戻っておいで」


 バクン! バクン! と激しい心臓の音が頭に響く。

「呪いって何だ? あいつらって誰だよ?」

 叫ぶ斗南の声に反応して、びょんっと伊予乃は跳ねた。

 獣のような奇声をあげて両腕を突き出して階段を駆け下りてくる。

 額から赤黒い水とは違う、真っ赤な血をしたたらせ、髪を振り乱した形相に、もはや伊予乃の面影すらなかった。


 声は届かない。力でも押さえられなかった。そして目前に迫る感じたことのない恐怖に、もう逃げる事以外に考えることが出来なかった。斗南は飛ぶように一階まで駆け下り、北昇降口から外へ飛び出した。




 ——別棟一階で、豪切たち三人は呆然と立ち尽くしていた。ここへ来た時には、すでに蔵橋は絶命していた。


「あああ、やべぇ、やべぇっすよ、これ。死、死んで」

「お、落ち着け、真泊氏。とにかく……外へ運ぼう。警察に連絡するんだ」

 力無く松宮が言った。

「なんで、蔵橋先輩が……斗南先輩はどこにいったんすかね?」

「そうだ、斗南殿か。二人は外に出て警察に連絡して。わたしは斗南殿たちを探しに行くわ」

「だめだ!」間髪を入れずに松宮が声を張り上げた。「バラバラにならない方がいい。蔵橋氏を外に運んで、警察を呼んですぐに三人で斗南氏たちを探しに行く。個別に行動するなんて、死亡フラグが立つだけだ」




 ——北昇降口を飛び出した斗南は、校庭を駆け抜け、校門前で倒れ込んだ。

 尻もちをついた格好の斗南はずりずりとあとずさる。

 じりじりと、変貌した伊予乃が迫る——。


「はあ、はあ、はあ……マチ……」

 もはや斗南に逃げる力はなさそうだ。ゆっくりと、伊予乃の両手が、再び斗南の首にかかる——。

「うふふふふ、ぎはははは……あきらめなさい、が一番の方法なのだから」


「いや、そんな事はないさ——」


 斗南のすぐ後ろから——「ノヨビウヲンラ、ハヌヒアナ、ホツハヌヒマヲモ、ヤヨメフ——」わけのわからない言葉を発する男の声が近づく。


「ちてやっっ!」


 その声とともに伸びてきた腕が、伊予乃の鎖骨のすぐ下にお札を叩きつけた。


「キィアアアアアア」


 それをまともに受けた伊予乃は、目を丸くしてパカリと裂けるほど大きく開いた口から悲痛な声を上げた。


 バンッッ!!

 強烈な破裂音がして伊予乃の体から、まるで魂が抜けるかのように女が弾き出されて、消えた——。

 それと同時に、逆立つ髪が静かに元に戻り、力無く、伊予乃はがくりと倒れこんだ。


 後ろを見上げる斗南を、男が見下ろして言う。

「さてさて、我が愚妹ぐまいの、なんて愚昧ぐまいな事か。めちゃくちゃじゃないか。なあ、くん——」

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