第9話 蔵橋弘一
「え? 伊予乃さん……?」
うずくまる体勢からぐるりと首が回り、見開いた目が蔵橋を射抜く——。
がりん! と伊予乃の右手の爪が蔵橋の顔を——ひたいから頬にかけて引き裂いた。
四本の傷は深くえぐれ、生爪が二枚刺さっている。
「痛いっ! 痛いぃっ! あああああ」
叫び、両手で顔を覆い仰向けに倒れ、両足をばたつかせる蔵橋を横目に、伊予乃は笑みを浮かべながら駆け出し、渡り廊下へと消えた。
「ああ、伊予乃さん、駄目だよ、伊予乃さん」
蔵橋はよろめきながら立ち上がった。
蔵橋は子どもの頃から周囲に馴染めず、人付き合いが嫌いだった。アニメ部に入って斗南と知り合った時も、彼が同じクラスの生徒だと伊予乃に突っ込まれて初めて知ったくらいだ。
そもそも、携帯でアニメばかり見ているのを知られて、伊予乃に誘われるまでは部活動なんてする気もなかった。
面倒ではあったが、アニメは大好きだし、この部なら今までと同様、自分の世界に閉じこもっていてもやり過ごせるだろうと考えて入部した。
だが、蔵橋の閉じた世界は少しづつ変わっていった。
みんなの会話に参加させようと、伊予乃がちょくちょく話を振ってくるからだ。
それをお節介でウザいと考える者もいるが、蔵橋はそんなふうに感じたことは一度もなかった。
伊予乃には、傷ついてほしくなかった。
蔵橋はふらつきながらも伊予乃を追うが、あまりの激痛によって、二階渡り廊下の途中で意識を失った。
「うわっ? 水浸しじゃないか」
水道はすでに止まっているものの、別棟一階の廊下はくるぶしのあたりまで粘り気のある液体が溜まっていた。
その液体を撥ね上げて進む斗南は、別棟昇降口手前で、液体の塊に呑まれている真泊を見つけた。
「真泊くん!」
「がぼぼぼ、ぼぼ」その中で、もがく真泊を引き抜くと、その塊は芯を抜かれたようにバシャリと爆ぜた。
「がはっ、ごぼ、ごほっ、平気、平気っす。はあ、死ぬかと思った」
真泊は苦しさと恐怖に顔を歪めてはいるが、意識はハッキリとしている。
「はあ、助かったっす、先輩。すげー俺! 何分息止めてたんだ? よく持ったな」
「良かったよ真泊くん、どこも——」
息つく暇もなく——ジャブリ、と水音を立て、伊予乃が二人の前に現れた。大きく開かれた口から異様に赤い舌がゆらゆらと揺れている。
「おいで、ほら、こっちへおいでぇ」
「だ、誰だ? マチ……か?」
「ああ、またっす。伊予乃先輩っすよ、またおかしくなってる」
初めて見る伊予乃の異常さに驚き戸惑う斗南だったが、真泊にうしろの昇降口から出て先輩たちを呼ぶように言うと、伊予乃に向かい歩き出した。
「俺も軽くぶん投げられたっす。気をつけてくださいね」
言いながら、真泊は別棟昇降口へ向かった。
伊予乃は斗南をよそに、真泊を追いに走り出した。
「待てよ、マチ!」ガッ、と横を抜けようとする伊予乃の腕を掴む。
「待てって、どうしたんだよ?」
首を捻り
——北階段では豪切と松宮が、ひたすら階段を駆け下りていた。
「まただ……下りても下りても、なんで三階なんだ?」
頬をつたう汗を拭い、松宮が声を張り上げる。
すでに六階分は階段を下りている。
「あの女に閉じ込められているのよ」と豪切。
「私は見えなかったが例の女だったんだよな。あれから我々を襲ってくるでもなし、上っても下がっても行き着く先は三階じゃないか。どうなってるんだ?」
「他の誰かを襲っているんだわ。霊だってなんでもありってわけではないの、離れた場所の人間を同時に何人も襲えはしない」
「……それで、とりあえず逃げないように囲ってるってことか? そんなことまでできるものなのか」
「それだけ強力だってこと」
「そんなの、十分なんでもありだろう……さっき、女を吹っ飛ばしたらしいが、その呪文でどうにか出来ないのか?」
「あれは『念唱』。我が……、わたしの家に伝わる術よ。言われなくてもやってみるわ」
——別棟一階。
斗南と伊予乃は絡み合ったまま液体の中に倒れ込んだ。
なにを言っても、伊予乃は正気を取り戻すことなく「いけない子だ。いけない子……」そう言いながらどろりと液体を滴らせながら立ち上がった。
信じられないほどの怪力と怒りに歪む表情だった。
「いけない子だあぁぁ」
迫る伊予乃に声も出せずに、斗南は背を向け、南二の階段を上がる。
豪切たちがまだ残っている可能性に賭けて三階まで一気に駆け上がった。
先に斗南の足音が過ぎていく。すぐあとにそれを追っている伊予乃の笑い声が遠ざかっていった。
その騒ぎで、渡り廊下途中で意識を失っていた蔵橋が目を覚ました。
蔵橋は再びヨロヨロと歩き出し、南二の階段へ行き着くと、階下から聞こえる声に誘われるように下りていった。
「蔵橋くん、こっちだよ蔵橋くん」
「伊予乃さん?」ジャブリジャブリと液体の中を進む蔵橋に、その視界をふさぐように白いモヤがまとわりつく。「うわっ! ああ!」めちゃくちゃに両腕を振りまわしてそれを振り払い進んだ。
先ほど真泊が液体に呑まれ、斗南に助けられた場所に伊予乃が立っていた。
優しい笑顔でこちらに両手を伸ばしている。
「良かった。元に戻ったんだね、どこも怪我してない?」
蔵橋は朦朧とする意識の中、両手を差し出し、二人は手を取り合った。
しかし手を取り合ったそれは、人型の液体の塊だった——。
——音を立てて教室内からドアを破り、斗南が廊下へ転がり出てきた。
三階の渡り廊下を通り本校舎に入ったところで、伊予乃に追いつかれた斗南は教室内に逃げ込んだのだが、捕まり、投げ出されたのだ。
息を切らせて、痛みに耐えて立ち上がるが体力は限界に近かった。
その頃、豪切たちは『念唱』で、閉じ込められていた結界を破り、一階の中央昇降口で真泊と合流していた。
「お、おお真泊氏、暗くてよく分からなかったが、全身血だらけなのか?」
松宮が、ピントでも合わすかのように眼鏡のふちを持ち、まじまじと真泊を見ながら言った。
携帯のライトで照らされた真泊の全身は、それこそ血液を浴びたように赤黒く染まっていた。
「いや、どこも怪我はしてないっす。この水、赤黒かったんすね。あ、いやいやそんなことより俺、水に襲われて溺れ死にしかけたところを斗南先輩に助けられたんっすよ」
「ではその、斗南殿は? 他のものたちはどこに行ったの?」
豪切の問いに、真泊はこれまでのことを二人に説明しながら別棟の一年生昇降口へ向かった。
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