第22話

 その時、黒竜会会長の伊吹兵衛は、愛人と二人でマンションの一室にいた。


 彼は血まみれの過去から逃れようと、会長職に退いてからは、この女と二人、海の見えるこの別荘へ引きこもって、外の世界と一切の関わりを断って、楽隠居の日々を送っていた。


 表で聞こえるかすかな音に、裸のまま上半身を起こした女が窓から外を覗こうとするが、カーテンが閉まっていて見えなかった。


「雨かしら……?」


 伊吹は、到底還暦を過ぎたと思えぬ逞しい腕で女を引き寄せると、耳元で囁いた。


「波の音じゃろ」


 起き上がって、女の上にのしかかった。


 女は甘ったるい嬌声を上げ、大きな背中に腕を回した。


 インターホンが鳴った。


 女は伊吹から腕を離し、気怠げにベッドから立ち上がった。


 ガウンを一枚羽織って、玄関の方へ出て行った。


「誰?」


 インターホン越しに覗いてみると、


「宅急便です」と返事があり、ユニフォーム姿の若い男が、帽子を目深に被り、ダンボール箱を抱えて立っていた。


 怪しい気配もないので、女は鍵を開け、チェーンを下ろした。


 玄関先へ招き入れると、男はダンボールを差し出して、


「すみません、受け取りお願いします」


「ご苦労様。ちょっと待ってて」


 女は踵を返し、寝室へ戻った。


 ベッドから上体を起こし、伊吹が訊いた。


「誰じゃ?」


「ああ、宅急便」


 答えつつサイドテーブルの引き出しから印鑑を取り出した彼女は、振り返って息を呑んだ。


 若い男が寝室の入口に黙然と突っ立っている。


 伊吹の鋭い誰何が飛んだ。


「何じゃ、てめえっ!」


 帽子を脱いだその男は、修兵であった。


 修兵はものも言わず伊吹へ突進した。


 手には短刀が握られている。


 刃先が相手の脇腹へ突き刺さって、声のない悲鳴が上がった。


「伊吹、命もらうぜっ!」


 いったん短刀を引き抜いて、とどめを刺そうとした修兵の腕に、女が死に物狂いで組みついた。


「逃げてぇっ!」


 伊吹はベッドから転がり出て、素っ裸のまま脇腹を押さえ、必死に玄関へ逃れようとする。


 臍を噛んで追いすがろうとする修兵に、女は組みついたまま離そうとしない。


 もみ合いながら、女は夢中で叫び続けていた。


「殺させない。あの人は絶対殺させないわ!」


 恐ろしいほどに、必死の形相だった。


 女の命がけの抵抗にあい、修兵は全身から力が抜けていくのをどうすることもできなかった。


 修兵はねっとり血のついた短刀をぶら下げたまま、ぼんやり女の顔を見つめた。


 女は恐怖を押し隠して、息荒く修兵を睨みつけている。


 玄関のドアが開いて、伊吹が外へ逃げる音が聞こえた。


 不規則な足音が次第に遠ざかるのを聞きながら、修兵はなおその場に立ち尽くしていた。

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