05.シュークリーム・パーティー(1)

「……それで、指示通りに書類作成したら、数字が違うって言われて! そもそも渡された資料が間違ってたのに、なんだかわたしがミスしたみたいな雰囲気になっちゃって、それでわたしが怒られるの、意味がわからないです!」


 拳を振り回しながら苛立ちをぶつける胡桃に、頬杖をついた男は興味なさそうに「ふーん」と答える。きっと胡桃の愚痴など右から左で、目の前のシュークリームに夢中なのだろう。

 

 おかしな隣人――佐久間凌との出逢いから、はや一週間が経った。

 恋人に振られた傷も未だ癒えず、会社では相変わらず積み上がる仕事に追われてばかりで、胡桃は日々ストレスを溜め込んでいた。

 一刻も早くお菓子を作りたくてウズウズしていたのだが、今週は月末で多忙だったこともあり、毎日終電ギリギリで帰宅していた。さすがに平日深夜にお菓子作りをする気力はなく、土曜日である今日、ようやく胡桃は鬱憤を晴らすことができたのである。


 本日のお菓子は、シュークリームにした。シュー生地を作るために、牛乳とバターと薄力粉を火にかけてひとまとまりにしたあと、卵を少しずつ入れて馴染ませる。この行程に、結構力がいるのだ。ストレス発散にはもってこいだが、腕が痛くなってしまった。

 コロンとした丸っこいシュー皮の中に、洋酒を入れたカスタードクリームをたっぷり詰め込む。上からお化粧のように粉糖を振りかけたら完成だ。生地も綺麗に膨らんで、なかなか上手にできたと思う。


 シュークリームを完成させた胡桃は、約束通り隣人の元へ差し入れにやって来た。今までは一人で食べきれなかったため、日持ちしないお菓子を作ることに抵抗があったけれど、佐久間がいるならその心配もない。

 佐久間は大喜びで胡桃を迎え入れて、今日は紅茶ではなくコーヒーを淹れてくれた。ウキウキした様子で、いただきます、と手を合わせた佐久間に、胡桃はひとつだけ条件を出したのだ。


「食べながらでいいんで、わたしの愚痴聞いてもらっていいですか!? シュークリーム代です!」


 佐久間はあからさまにげんなりした表情を浮かべたが、渋々了承してくれた。そして胡桃は思う存分、一週間ぶんの鬱憤を隣人にぶちまけたのである。


「……残業してフラフラになって帰ってきたら、元カレのインスタが更新されてて、なんかスポーツバーでサッカー観戦したーとか書いてあるんですよ!」

「はあ」

「わたしは日付が変わるギリギリまで残業してるのに! おへその出た服着た、知らない女のひとたちと一緒に映ってるの! 信じられない!」

「へえ」

「それで、わたしが投稿したお菓子の写真には〝いいね〟とかしてくるし! もう、どういうつもりなんだろ! こっちは全然良くないんですけど!」

「なあ。その話、まだ続くのか」

「…………いえ。以上です。ご清聴ありがとうございました」


 たっぷり15分ほど一方的にまくしたてて、胡桃はようやく愚痴を締め括った。ふぅ、と息をついて、カラカラになった喉をコーヒーで潤す。佐久間が淹れてくれたコーヒーは、苦味の中にも芳醇な味わいがある。胡桃にはあまり違いがわからないけれど、きっと高価な豆を使っているのだろう。

 シュークリームを口に運んだ佐久間は、目を閉じて「うむ」と頷いた。


「カスタードクリームの中に、グランマニエが入っているな。甘さの中にある爽やかなオレンジの風味が素晴らしい」

「……ねえ佐久間さん。わたしの話、聞いてました?」


 胡桃はコーヒーカップをソーサーに置くと、佐久間をじとりと睨みつけた。彼は涼しい顔で「では、言わせてもらうが」と口を開く。


「きみは、まだ別れた男と繋がっているのか。さっさと切った方が、精神衛生上いいんじゃないのか。昔の恋人のSNSを覗き見ても、得るものなんてひとつもないだろうに」

「うっ」


 元恋人への未練を見抜かれて、胡桃はぐっと言葉に詰まった。一応話は聞いてくれていたようだが、正論で返されるのも気に食わない。そもそも助言や同意を求めていたわけではなく、ただ黙って愚痴を聞いてほしかっただけなのだ。

 佐久間は器用な手つきでシュー皮を切り、クリームを掬って乗せる。シュークリームはお菓子の中でもトップクラスに食べるのが難しいと思うが、彼の食べ方はすこぶる美しい。


「そんなことより、きみも食べたらどうだ」

「……食べますよ。わたしが作ったんですから」


 佐久間はフォークを用意してくれたが、胡桃は彼のように綺麗に食べられる自信がない。少しお行儀が悪いかもしれないが、手掴みでいかせてもらおう。

 シュークリームを両手で持つと、ぱくりと思い切り頬張った。中からむにゅっと甘いクリームが飛び出してくる。シュー皮はほどよくサクサクで、とろりとしたクリームと相性抜群だ。バニラの香りが口いっぱいに広がって、胡桃は幸せを噛み締めた。

 お菓子を作るのは楽しいし、食べるのは美味しい。我ながら素晴らしい趣味だな、としみじみ思う。


「どうだ。とてつもなく美味いだろう」


 作ったのは胡桃なのに、得意げにそんなことを言うものだから、思わず笑ってしまった。先程まで腹の中で滾っていた怒りややるせなさが、しゅわしゅわと気化していくのがわかる。


(……やっぱり、変なひと)


 ちっとも優しくない、甘くないこの男の前では、何故だか不思議と肩の力が抜けるのだ。どちらかというと感情を内側に溜め込みがちな胡桃には、こんな風に思う存分愚痴をぶつけられるひとなんて、今まで周りにいなかった。


「……ありがとうございます。愚痴、聞いてもらっちゃって」

「いや。シュークリーム代だと思えば安いものだ」


 胡桃が頭を下げると、佐久間はそう言って首を横に振った。


「ただ、仕事の愚痴はよくわからないな。俺は会社勤めをしたことがない」

「そういえば、佐久間さんのお仕事って……」


 佐久間がどういう仕事をしているのか、きちんと聞いていなかった。胡桃にとって彼は、謎多き隣人なのだ。胡桃が知っている情報といえば、「甘いものが大好き」「配偶者や恋人はいない」ぐらいである。

 まず、部屋から外出している気配がほとんどない。在宅勤務をしていると言っていたし、スーツを着て通勤するような職種ではなさそうだ。買い物ぐらいは行っているのだろうが、部屋の外ですれ違ったことすらない。

 夜遅くまで部屋の電気が点いていることが多いが、午前中は基本的にカーテンが閉まっている。おそらく典型的な夜型で、胡桃とは生活リズムがまったく違うのだろう。いつもボサボサ頭にスウェット姿で、眠そうな顔をしている。


「あ、もしかするとデザイナーさんとか? クリエイター的な」

「……まあ。クリエイターといえば、そうだな」

「ここでお仕事されてるんですか? なんだか、難しそうな本がいっぱいありますけど……」


 胡桃はあらためて、佐久間の部屋をぐるりと見回す。本棚にぎっしりと並んだ書物を見ていると、佐久間はやや気まずそうに「あまり見るな」と頬を掻いた。

 いかがわしい本があるようには見えないけれど、見えないところにこっそり隠してあるのかもしれない。胡桃は慌てて本棚から目を逸らした。


「……す、すみません。佐久間さんだって男性ですもんね」

「はあ?」

「そりゃあ、見られたくないもののひとつやふたつ……」

「……きみは、何か変な勘違いをしていないか? 俺はただ」


 佐久間が何かを言いかけたそのとき、ピンポーン、という音が鳴り響いた。これはマンションの階下にあるインターホンではなく、部屋の扉のそばにあるインターホンの音である。

 胡桃は思わず佐久間の方を見たが、彼は微動だにせずシュークリームを頬張っている。


「佐久間せんせー! いるのはわかってるんですからねー! 開けてくださーい!」


 見知らぬ男の声とともに、ドンドンドン、と扉を叩く音がする。胡桃は驚いて玄関の方を見たが、佐久間は外界の音を一切シャットアウトしてしまったかのように、一瞥もしなかった。


「……あの。開けなくてもいいんですか?」

「開けなくてもいい」

「ものすごーく、気になるんですけど!」

「気にするな」

「ちょっと、せんせー! あっ、くそっ、チェーン掛けてやがる! ここ開けて、進捗だけでも聞かせてくださーい! 先生の好きな店のシュークリーム、買ってきましたからー!」


 ガチャガチャと、無理やり扉を開けようとする音まで聞こえてきた。鳴り止まない声に、佐久間はやれやれと首を振った。仏頂面で、玄関の方を指差す。


「きみが追い払ってきてくれ」

「へ」

「俺は全裸でベッドで寝てるとでも言ってくれれば、さすがに気を遣って帰るだろう」

「い、言いませんよそんなこと! 破廉恥な!」


 とはいえこのまま無視もできず、胡桃は渋々玄関へと向かった。チェーンを開けてやると、目の前の扉が勢いよく開く。


「! 佐久間せんせっ……い……!?」


 扉の向こうから現れたのは、胡桃と同世代の若い男性だった。明るいグレーのスーツを着て、なんだかヘンテコな柄のネクタイを締めて、黒縁の眼鏡をかけている。胡桃をまじまじと見つめた男は、驚いたように口をあんぐり開けた。


「すっ……すみません! 部屋間違えました!」


 勢いよく90°のお辞儀をした男に向かって、胡桃はぶんぶんとかぶりを振る。


「あ、大丈夫です! あの……ここ、佐久間さんのお部屋で間違いないです!」

「え!? なんで佐久間先生の部屋から女性が出てくるんですか!?」

「いや、その……」

「もしかして、先生のこいび……」

「ち、違います!」

「ちょっと、せんせー! 入りますよ! ちゃんと説明してください!」


 胡桃を押しのけた男は、そのままダッシュでリビングダイニングへと向かう。慌てて、その背中を追いかけた。

 佐久間は相変わらず、ダイニングチェアに腰を下ろして優雅にコーヒーを飲んでいる。「役に立たないな」と溜息をついた彼は、じろりとこちらを睨みつけてきた。

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