see you
人気者
相変わらず人気のない廊下は、心なしかひやりとした空気で満たされている。扉一枚隔てた向こう側に恐怖の対象がいるという事実ですら忘れてしまいそうになるほどの、正常で平穏な空間。運動部の声。吹奏楽部の声。さっきまでずっと――それこそ、相談室にいるときからずっと――耳にあったはずの音たちが、いかにも懐かしそうに、そして優しく聞こえてくる。
「おっ、キグー!」
保健室の前を歩いていると、前のめりに明るい声が静かな廊下に短く響いた。反射的に振り向くと、保健室から出てきたらしい矢野さんが他でもなく私に向かって歩いてくる。全身に緊張が走った。
「ちょっと待ってね。話すの久しぶりだよね。名前思い出すから。えっと」
まくしたてるように言った後、矢野さんはすぐに嬉しそうに手を打った。
「そうだ、カンナだよカンナ。こんなところでキグーだねカンナ」
屈託のない笑顔。クラスの人気者に声をかけられるのは嬉しいはずなのに、私にはそれがあまりにも突然のことすぎて、笑顔を引きつらせることしかできない。
思えば、初めて声をかけてきたときにも矢野さんはこんな感じだった。馴れ馴れしくて、相手のペースなんかお構いなし。そのくせ、
「あ、なんか急に声かけちゃってごめん……だった? こんな所でクラスの子に会うなんて思わなくってさ、つい声かけちゃった」
自分が馴れ馴れしい自覚はあるみたいで、その上で、彼女自身に悪意がないことが分かりやすく伝わってくる。思うに、そんなところも矢野さんが人好きのする一要因なのだろう。
照れ隠しをするように矢野さんが頭に手をやると、少し派手な印象のふわっとしたポニーテールが、うなじの辺りでその毛先をいたずらっぽく揺らした。
「急いでた?」
「ううん。何も用事ないし、今から帰るところ」
「部活入ってなかったっけ」
「うん。矢野さんは何部だっけ」
矢野さんのジャージー姿を見ながら、運動部だよねと付け加えた。溌溂とした矢野さんの笑顔に、袖をまくってだぼついたジャージーがしっくりとよく似合っている。教室内で見るときの印象をもっと強く、凝縮したような姿は、彼女に対して卑屈な思いを抱いている私の目にすら、ごまかしようもないほど魅力的に映ってしまう。
「バレー部だよ。で、さっき思ったより高く跳びすぎてさ、足くじいちゃって」
「跳びすぎた?」
妙な言い回しに聞こえてしまい、思わず声に出る。言葉の選び方なんて人それぞれなのかも知れないけれど、私には着地に失敗した、とでも言えば良い場面に思えてしまう。あえて跳びすぎたという言葉を選ぶほど、高く跳んでしまったということなのだろうか。
矢野さんはそうそう、とはにかんで、ぺろりと舌を覗かせた。
「だからね、診てもらってたところ」
親指で保健室を指す仕草に、私は彼女が中性的な顔立ちをしていることを初めて意識した。はっきりと整った眉に、大きなアーモンド形の目。彼女の快活さを表しているかのように大きく開く口は、閉じているときには薄い唇のせいで凛とした強ささえうかがわせるようだ。
「大丈夫なの? 足」
「うん、ちょっと痛いかなー、ぐらい。平気だよ。でさ、カンナはこんなところで何やってたの」
「えっと、私は――」
思わず相談室の方へ目をやりそうになって、慌てて俯いた。理由は自分でもよく分からないけれど、相談室に行っていたことは知られたくなかった。
「探検、かな」
「タンケン?」
「そう。ほら、まだ私たちって、入学したばっかりでしょ。いろいろ、まだ知らない場所ってあると思うし、あらかじめ見て回っておこうかな、って」
「ああ、なるほど」
とっさの嘘にしては上出来だ。内心で自画自賛しながら矢野さんの顔を見ると、彼女の目は興味深そうな色で私の手元に向けられている。
はっとして、お守りを持った手を背中に回した。
急いで出てきたせいだろうか。あんなに気味悪く思っていたはずなのに。動揺を悟られたくなくて笑顔を向けると、矢野さんはお守りから興味を無くしてくれたようだった。
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