嘘でしょ
世界が変われば良い。今まで、そんなことを考えたことはなかった。
いや、考えたこともないと思っていたのは、言葉にしたことがないからだ。環境を変えたいと知り合いのいない高校を選んだのは、自分からは動かずに周りの人が声をかけてくるのを望むのは、世界よ変われと願うことと何が違うのだろう。
私は、世界に変わって欲しかった。世界が変わるのを待っていた。つまりはそういうことだ。
「世界は、変わるよ」
念を押すように、大の大人が言った。穏やかで、迷いがなくて、とても冗談を言っているようには聞こえない。
「僕は、その方法を知ってる。君はまだ、その方法を知らないだけだ」
宗教か何かの勧誘みたいだ。心のどこかで、誰かがそう思っている。紛れもなく、私の中の常識的な部分がこの男のことを胡散臭く思っている。
それでも、そんな思いは、今は自分のものではないことにする。世界に変わって欲しいから。
私が次の言葉を待っていることが分かったのだろう。にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべて、深澤先生はよれたスーツの右ポケットから何かを取り出した。拳の中にすっぽりと収まっているそれに細めた目を向けると、深澤先生は軽く息を吐いて再び視線をこちらに向ける。
「これは簡単なおまじないなんだけど――」
おまじない。懐かしい言葉に聞こえる。そういえばそんな話だった。今の彼は、なんだか私にとって現実離れした存在で、それこそ超能力か魔法でも造作なく使うことができてしまいそうな、そんな雰囲気があったのだ。
ポケットから取り出されたものを受け取ってみると、それは紐で閉じられた袋状のもので、見た目から判断するならば、
「お守り?」
そう見えないこともない。神社なんかで売られているようなお守りを真似て作った、細長くて、フラットな布製の青い袋。
身も蓋もない言い方をしてしまえば、安っぽい。荒い仕事ではないものの明らかに手縫いであることが分かるし、何よりも使っている布が無地の単色で、しかも薄い。家族や友達が自分のために作ってくれました、というエピソードがついて初めて価値の出るような、隠す気もない手作り感。
「はは、そう、お守り。分かってくれて嬉しいよ」
照れたように笑う深澤先生に対して、私は苦々しい笑顔を向けているのに違いなかった。
世界は変わる、なんて言っておいて、取り出したアイテムがこんなちゃちな代物だなんて。がっかりだとか拍子抜けだとかいう感情よりも、「嘘でしょ?」と思う気持ちが強い。
こんな子供だましのためにさっきまであんな態度をとっていたなんて、嘘でしょ?
「これで、世界が変わる」
いやいや、そんなわけないから。もういいから。こんな頭のおかしい大人の話をほんの少しでも信じかけていたということが、情けない。
「あの」
もしかしたら、目の前にいる狂人は何かを話そうとしていたのかも知れない。私が意を決して放った冷たい一声に、眼鏡の男は虚をつかれたという感じで貼りついたような笑顔を取り落した。
「帰ります」
早口に、突き放すように言い放って、席を立った。深澤先生の視線は、まだ座っていた私の目があったのであろう位置に向けられている。蝋人形のようなその表情は滑稽で、だけどその滑稽さの何倍も不気味だ。
早く逃げなきゃ。
そんなふうに思うことは申し訳ないと、良心が私を咎めている。せっかく私のことを思ってお守りを渡してくれたのに。だけど、それで逃げ出したいという気持ちがどこかへ消え去るわけでもなかった。
「用事が、あるので」
良心の、最後のひとかけら。騙すつもりすらない嘘。それで、私は彼に背を向ける。
はずだった。
「世界に変わって欲しい。そう思っているだけで良い。そのお守りを持ってね」
いつの間にか私の視線は、深く続く闇のような双眸にその全てを奪われていた。視線だけじゃない。この瞬間、耳に入ってくる音は彼の声だけ、頭が理解できるのは彼の言葉だけで、もしかすると私は彼の闇の中に囚われてしまったんじゃないかと、そんな錯覚すら覚えてしまう。
がしゃあ、と音がして、私はようやく一歩だけ後ずさることに成功したようだった。下がった足が何かを蹴飛ばしたらしく、ふくらはぎに軽い痛みが走る。
「それは、一年後にでも返してくれれば良い」
深澤先生がまだこちらを見ているのかは分からない。それを確認するよりも前に、私は失礼しましたと小さく呟くように言って、相談室のドアを閉めていた。
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