まじない
「そういえば君の名前、まだ聞いてなかったね」
あっ、と声が漏れる。篠山さんの時に引き続き――いや、それ以上のうっかりだ。今度は自分の名前すら告げていないなんて。
「北沢柑菜……です」
「北沢さん」
先生は笑顔のまま私の名前を復唱してから、深く息を吐きながら細身の身体を重々しく持ち上げた。彼が何やら意味ありげに窓の方を向いてしまうと、私の中には寂しさなのか物足りなさなのか、どちらにせよ自分にとっては意外な感覚が薄っすらと浮かび上がった。
何かをもっと話したいような、話してほしいような。胸の中で頭の中でもやもやうずうずと管をまいて私のことを卑屈にさせる何かは、きっと、通学路や教室で私に話しかけてこない不特定多数の誰かに向けられる感情とほぼ同質のもの。だけど確実に全く一緒ではなくて、少なくとも一つはあるその相違点を挙げるのならば、それは彼と私との会話がまだ続くのだという確信が持てるという点だ。
グラウンドの方でホイッスルが鳴り響いた。何部のものかは分からない。窓の外からはブラインド越しの光が差し込んでくるばかりで、向こう側の様子を窺い知ることはできない。深澤先生は、そんな方を向いて、いったい何を見ているのだろう。
「僕はね、特別なおまじないを知っているんだ」
唐突に。少なくとも私にしてみれば唐突に、深澤先生が何かを言った。タイミングのせいか、あるいはその内容のせいか、その声は運動部の出した物音であるかのように私の耳へ届いた。
よく見ればしわの多いスーツジャケット。正面からの印象に比べればくせ毛の少ない後頭部。そんな後ろ姿が、スクールカウンセラーが、私よりも十は年上に見える大の大人が言うにしては、「おまじない」という言葉はいかにも異質である。
「おまじない?」
聞き間違いであって欲しくて、小さな声を相談室に響かせた。先生はゆっくりとこちらに向き直って、何も答えず頬を緩ませる。
「スクールカウンセラーの仕事ではね、これは正直、ないよ。だけど僕はこの状況を変えられる」
何を言っているのか、よく分からない。分かるのは、彼には得体の知れない自信が満ちているということ。
「篠山さん、も?」
ついさっきまでとは一転、私の口は開くのが辛いほどに重たくなっている。やっとの思いで発した孤独な少女の名前に、深澤先生は穏やかな笑みを浮かべた。
「北沢さん。きみは、どうしたら良いと思う? 何が、変われば良いと思う?」
異様な雰囲気をまといながら、深澤先生は私の話を聞いていた時と同じように、軽い動きで椅子に座る。
「何が――?」
「そう。何が変われば北沢さんの悩みは解決するのかな」
目線が近づく。私が口を開かずにいると、彼の言葉は私のそんな反応を待っていたかのように、滑らかに続いた。
「二択にしようか。変わって欲しいのは自分? それとも――」
世界?
酷い二択だ。笑う気も起きないほど、規模が違う。
「でも」
反射的に出た言葉は問いへの答えではなくて。だけど私には、そして間違いなく深澤先生にも、答えは分かりきっていて。
「世界なんて、変わりますか」
「変わるよ」
自信に満ちた声に、私は言い返す言葉を失った。この、目の前の、夢みたいな訳の分からないことを冗談めかしもせずに言う大人に、もう何も言うことができなかった。呆れで、恐れで、期待で。
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