薄明かりの笑顔
「あの、もしかしてだけど」
後ろから、か細い声。私は壁としての役割を失わないように、身体をひねって後ろの席に顔を向けた。
「場所、そこ、嫌だった?」
「え?」
何を言いたいのか分からなくて、そんな気はないはずなのに機嫌の悪そうな声が出る。眼鏡の奥がぴくりと震えて、気の弱そうな同級生は目を伏せた。
「私、この席、取っちゃって……」
ああ、なるほど。彼女の言いたいことがようやく分かる。そんなことを気にさせていたのかと、今度はこちらが申し訳なくなる番だった。
「そんなのぜんぜん、少しも、何とも思ってないから、だから――」
なんだか焦ってしまって。声が裏返るほど、焦ってしまって。だから私は話の流れだとか、雰囲気だとか、そういった面倒くさくて、恐らく私がいつも大切にしているものをどこか――教室の隅かどこかに押しのけてしまう。
「名前、なんていうの」
「篠山菜々華です」
この子にとって、私の質問は唐突ではなかったのだろうか。篠山菜々華は、私が返事を待つ間も与えずに、早口にそう言った。ささやまさん。確認のつもりで彼女の苗字を口にすると、篠山さんは何かを飲み込むように頷いた。
「私は、北沢柑菜」
きたざわさん、と篠山さんも繰り返す。どうしたら良いのか分からなくて、とりあえずうん、と返事をした。
「明日も、ここに来る?」
上目づかいの篠山さん。私はまた、うんと返す。
「明日も、来て良い、かな」
今度は、良いけどと返してみる。すると篠山さんの顔がぱあっと明るくなって、私は思わず目をそらしてしまった。それはきっと、人にこんな顔をされることに慣れていなかったから。
前に向き直って、食事を再開する。小奇麗で面白味のないお弁当は、いつもより何倍も早く空になった。
「私ね」
食べ終わるのを待っていたのだろうか。小さくて、それでも弾むような声で篠山さんが話しだした。
「中学の時から人付き合い、苦手で。高校でもなかなかうまくいかなくて。だけど北沢さんに声かけてみて、よかった」
訥々とした物言い。そんなことを言うなんて、重いな、と感じる。でもそれ以上に、狡いな、とも感じる。重いと思われたら嫌だから、私はそんな言葉を口に出したことがないのに。
「相談室にね、行ってみたんだ」
「相談室?」
聞き慣れない言葉だと思ったので、復唱してみた。口にしてみると、どこかで聞いたことがあるようにも思えてくる。
「一階の――西棟の。保健室の隣の」
「ああ、なんだっけ、スクールなんとかがいる」
今までに気にしたこともない事柄が、急に頭の中に蘇ってくる。そういえば、入学してすぐの時に、そういうものがあるという話を聞いたはずだ。
「そう。スクールカウンセラーのひとがいる所。そこでね、相談して」
「人付き合いが苦手です、って?」
本当は「友達ができません、って?」と言いたかったのだけれど、それはさすがにストレートすぎるだろうと思って止めておいた。結局出てきた言葉にしても、茶化しているような物言いだったような気がしてしまう。篠山さんは私のそんな質問に、そうだね、と照れるように笑った。
控えめな笑顔が、薄暗い教室の中で儚く、尊く、ひどく得難いものであるように映る。こんな笑顔ができれば、友達がいないなんてことはないんじゃないか。そんな風にすら思われる。
こんな笑顔ができても、明るい部屋の大勢の中では見向きもされないんだろうな、とも思ってしまう。
「それで、助言もらったんだ。だからこうして北沢さんと話せて。本当に、よかった」
「どんな助言だったの」
ああ、やっぱり重い。頭の片隅で、そんな言葉が黒く霧のようになって停滞している。そんな気持ちを自分の中でうやむやにしてしまいたくて、私は篠山さんの前で初めて笑顔を作った。
「それはね、秘密」
控えめな笑顔に、薄っすらと悪戯っぽさが混ざる。特にこれといって知りたい事柄というわけでもなかったので、私は笑顔を貼りつけたまま、そっか、と返した。
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