♠︎


記憶。

教室に戻るため、階段を上る。

二階に着いたところで、彼を発見する。ちょうど、授業のチャイムがなり、話し中だった他の先生と離れていく。

私は、共通テストが終わった時期、午後の授業はなかったので、このチャイムはあまり関係のないものだった。

彼が私に気づいたように止まる。

私は彼と目を合わせる。目を合わせて……

もう授業だから、行った方がいいんでは、と彼に微笑む。

彼は止まっている。

私と目を合わせる。

私は彼に微笑む。

私は廊下を彼と違う方向に曲がり、渡り廊下を歩く。




気が付くと、私は立っていた。服装や髪形は先程のままである。


場所は、乾燥した大地のようだった。少し進んだ先に、水たまりのようなものが確認できる。

空を見上げると、空は真っ暗で、ただ、大きい月だけが傾いていた。


「ここは君の夢の中だ」黒い影の声が聞こえる。


黒い影は蝶のような形をして、私の方へ舞った。

「水たまりの方へ進んで。そこに君の見たいものがあるはず」

私は水たまりの方へふわふわと羽を動かして誘導する黒い影の方へついていった。

水たまりの近くへ行くと、中心部分に金属製のベッドのようなものがあった。


「水たまりは深くないの?」私は黒い影に訊ねる。

「大丈夫だ。そのまま進んで」黒い影は答える。

私は、ゆっくりと水たまりに足を入れた。水は進むのに苦な深さではなく、水は少し冷たかった。


水たまりには、空に浮かぶ月が映っていた。


私はそのまま歩き、中心部のベッドの方に目をやった。

そこには、彼が仰向けになって眠っていた。私が昔よく見た白シャツ、銀色の腕時計、黒いベルト、長ズボン、そしてスリッパを履いていた。


「悠大……」

私はそう呟くと、ずっと胸の中にしまい込んでいた記憶が水のように溢れ、その中に飲み込まれる。


「この積分の○○が××に変形されている仕組みが分からないので、お教えいただけますか?」私は彼にメールを送る。


彼と話すようになってから、私は彼にメールで数学を訊くようになっていた。彼からは一日から二日ほど経ったあと、綺麗なグラフのついた丁寧な解説が返ってくる。彼の数学は美しかった。


一度、彼に同様に数学の質問をしたら、「今日は出張で高校にいませんでしたが、質問に答えに高校に行くので、職員室に五時くらいに来てください」とメールが返ってきた。私の質問に答えるためにわざわざ高校に行くというのだ。仕事熱心な人だと思った。彼が好きなのか、彼にそこまでしてもらっている自分が好きなのかよく分からないが、それでもとても嬉しかった。


五時頃、職員室へ向かい、彼の机の所へ行く。

彼はスーツを着ていて、いつもよりピシッとした雰囲気だった。でも、ネクタイの柄が少し個性的で、面白かった。

まぶたの上の短い毛を剃るか抜こうとしたのか、まぶたが少し赤くなっていて、私は少し心配になった。


別の日。私はまた彼と話していた。

「そういえば、美南って何歳だっけ?」

「えっと、十八歳です。そうだね、誕生日過ぎたから、十八」

「十八歳? 十八……」彼は少し驚いたように話した。

彼とは十二歳差、つまり干支がお揃いだった。

彼が私のことをどう思っているかは分からない。

でも、どこか、私は彼とあまり年の差を感じていなかった。


それにしても、どうして、私の年齢を訊いたのだろうか。そして、私の年齢に何を驚いたのだろうか。大きな怪我や病気もなく、無事に高校三年生になったならば普通に十八歳だが……。


「例えばさ、おれは銀行にお金を預けたままでいいのか心配してるんだよ。だって、銀行って結構破綻するかもしれないって言われてるからさ」

「あ……、なるほど、でもなんか確かに銀行ヤバいみたいなのは聞いたことあるかもしれませんね。分かんないですけど、破綻したらどうなるんですか? 預けているお金が全部消えちゃうってこと?」

「まあ、まずいことになるよね。だから考えてるんだけどさ、じゃあ、美南だったら、どうする?」

「……えっ、銀行以外ってことですよね。ん……えっ、いや、銀行にお金を預けるのが普通だと思っているので……。今のところ、分かりません」

「……ああ、そうか、高校三年生に突然訊いても分からんよね」彼は、若干私に何かを期待していたような口調で話した。


少し先の未来のことを考えているのは確かに賢いと感じたが、私に一体何を期待していたのだろうか。なぜ、私にそんな重要そうな話を振るのだろうか。


「未来の計画を立てるの」私は言う。

「いや、計画は立てるな。何が起こるかは分らんよ。例えばさあ、おれが夜逃げするかもしれんじゃん」彼が答える。


夜逃げ。私は一瞬、彼の奨学金のことが頭によぎった。

私は、(じゃあ、もし何かあったら私の方に来てよ)と思い、今の私に適切な言葉ではないと思って、その言葉を飲み込む。

それにしても、どうして、私の前で不安定そうなことを話すのだろう。私は彼が弱みを見せた気がしたのは、気のせいだろうか。そんなことを言われては、私は彼を守りたくなってしまう。私は、彼を守れるような立場ではないのに。


「女の人は、専業主婦になってもいいと思うけどね」彼は話す。

「厭だ。私は男並みに稼ぐの」私は答える。

「じゃあ、男並みに稼げばいいじゃん」彼は私に答える。


三十歳の男の人に向かって私は何を話しているのだろう。私はなぜ、彼に本音をぶつけるのだろう。


「実は、北添先生に最初に会ったときに、なんか『懐かしい感じがするな』と思ってたら、先生から『前に教えたことある?』って訊かれてびっくりしました」私は恐る恐る彼に伝えてみる。

「そのときなんて答えたの?」彼が訊く。

「『ないです』って答えました」

私はその後、彼に余計なことばかり言ったせいで、私がメールで直接会って話したいと言っても彼は無視するようになった。

「おれが言うことは、美南も心の中で思っていることなんじゃないのか? それを、『北添先生が言ったから』ってなるだけで。俺がわざわざ言う必要はないと思うよ」とも言われていた。

その後、メールで彼と話したいと迫りすぎた。

彼からは「混乱してしまいました。私では受け止めきれないので学生相談室などを利用してみたらどうですか」と返ってきた。それを見た私は彼に謝った。学生相談室には入りにくかったので行かなかったけれど、数日間彼に会わないようにした。

でも、その後は彼に数学を変わらずに教えてもらったし、特に約束せずに偶然会ったときの対応の雰囲気は変わらなかった。

私は少し彼を壊した。でも、彼は大人だ。


私は彼の負担になっていただろう……いや……そこまで彼にとって

私は、大きい存在じゃないかもしれない……分からない。


『この闇と光』のレイアも、父の負担になっていないのか心配して、「私は死んだ方がいいの? 厄介者なの?」「私は……死んだ方がいいのなら……死んでもいいわ」と父に話していた。

レイアの父は、それらの言葉を受けて、「馬鹿な!」「『死ぬ』などと……そんな言葉を使うものではないよ。おまえのような小さな子が……おまえのような可愛い娘が、そんなことを言うものではないよ」とレイアに答えていた。


私は、彼に向かって死にたいとメールで伝えたことがある。


あのメールをした日は私にとって悪いことが重なった。

その日、彼と昨日「今日はもう遅いから明日ね」と言われていた数学の質問をしに行こうと職員室に行ったら、他の先生から「彼はもう帰った」と言われた。

その日は授業後に地理の模試を希望者だけ残ってやっていたので、そのせいで先生が帰宅できる時間の五時を過ぎていた。

彼は、いつもなら五時を過ぎても学校にいることが多い。

彼自身、「給料が安定してるから先生の仕事をやってる」と言う人は嫌いだと話していたからだろう。

彼がいなかった喪失感が消えることはなかったが、しょうがないので彼に訊きたかった問題は自力でなんとかし、塾の自習室で先程の地理の模試の自己採点をしていた。

地理の模試は他の教科に比べたらよくできたと思っていたので、自己採点の結果が三割しかなかったとき、私は泣きたくなって泣いていた。

あんまりにもひどいので私はトイレの個室に隠れ、彼に八つ当たろうか迷ったが、とりあえず親に「あなたたちの育て方が悪かったんだ」みたいなラインを送って親をブチ切れさせた。


結局それだけでは収まらず、私は帰りの電車内で彼に向かって死にたいとメールを打った。彼に向かって「本当に死にたい人は死にたいと言わないと思います」と数日前に話していたので、本気で死にたいとは思っていなかった。でも、彼がいなかったことがやはりショックで、私は彼に自分のことを分かってほしかった。


また、彼は少し前、この世には薬物やお酒、たばこや宗教などに依存する人がいて、私がそうなってはいけないので、彼へのメールを私の心の居場所にしてもいいと言っていた。その結果私は他の何でもない彼に依存した。もちろん数学の質問もしていたけれど、ときどき受験から逃げるようにどうでもいいメールを送った。そのようなメールには、彼はいつも返事をしない。だから、今回もどうせ何も返事はないだろうと思い、私はそのまま家に帰り、親にさっきの件を謝ってから、メールはわざと見ず夕食を食べた。


食後にメールを確認したら彼から「今話せますか」とメールと共に電話番号が載っていたのでびっくりした。まさか、このような対応をするとは予想していなかったからだ。

しかし、電話というあからさまな手段では、親に話し相手を訊かれそうなので電話はできない、とメールを返した。


数分後、彼から死にたいと気軽に言うなという叱責のメールが来た。彼は本気だった。


私は思った。

北添先生は、悠大は、……まだ私に生きていてほしいと思うの? 生きていた方がいいと思うの?

多少は彼に生かされた気がする。


私の中で問題になったのは電話番号だ。せっかくあるので一回使ってから消そうと最初から思って学校で彼に電話をかけたら、五時前にかけてしまったので、「五時にかけ直して」と彼に言われたので、その時間にもう一回かけ直した。

「学校でかけてますよ」と私が話したら、電話ではなく直接会って話すことになった。


「どの辺にいるんですか?」私は電話で尋ねる。

「ああ、えと、職員室の下の一階の廊下の辺りにいますよ」彼は答える。


私は階段を一段一段、静かに下っていき、階段の先にいる彼の姿を徐々に捉えていく。


その日は湿気の酷い日だった。私の髪も、彼の髪も湿気を含んで、乱れていた。いつもはしっかり整えてある彼の髪がそのように乱れているのは、新鮮で、こんな彼の姿も素敵だと思った。放課後の暗闇に包まれた廊下は秋のひんやりとした空気に包まれ、彼の瞳の中にある闇は光よりもっと研ぎ澄まされていて、美しく感じられた。


その日、彼が話していたことを思い出す。

「おれの役割はね、美南がもう勉強厭だ、ってならないようにすることだよ。それ以外のことはできない」


私はこの言葉を聞いたとき、自分でも分かりきっていることを言われたと感じた。でも、この言葉の指していることがなかなか入ってこず、私は心の隅でまだ夢を見ていた。


「これと、これだと永遠になっちゃうじゃん。だから、おれと話して勉強の息抜きをしないほうがいいよ。おれはね、受験勉強をしていたときで、集中力が切れてきたときは、全然興味ないドラマを何本か持って行って一本ずつ見てた。興味がないから、それ以上見ようと思わないでしょ? ――つまらないドラマを見る。おれだと楽しすぎるでしょ?」彼は、私と彼自身を指さしながら、まるでこのことを事前に考えていたかのように話した。


私には合わないと思ったので、結局彼の言うように息抜きでドラマは見ていない。しかし、永遠……が私の中で引っかかり、私は笑った。彼は私に何を与えようとしたのだろうか。

だが、私は永遠を証明できない。おそらく彼もそうだ。


私はその日、また彼を怒らせるような捉え方になる話をしてしまった。

「おい――」彼が低い声で話す。

私は彼に言われた内容を受けて、反射的に、抑えきれない哀しさを刺すような目で彼を見つめ、でも口元は笑っていた。

数秒後、(北添先生に向かって何してるの! 先生だよ?)というもう一人の自分の声が聞こえてきた。

「昨日は……、死にたいなんて言ってすみませんでした」

「いいよ。そういう日もあるでしょ」彼の怒った声は急に優しい声に変わった。私はこのとき、彼に自分のことを受け止められたような気がした。なぜ、こんなに優しいのだろうか……。


また、話している最中、彼は自分の電話番号を教えた件に関して、「緊急そうだったから」と言い、本当はあまりよくないと言っていた。

さらに、この件について、彼と話した次の日、友達に相談したところ、それはやはりよくないと言われ、私はそのとき、初めから消そうと思って電話番号を使ったことを思い出した。

「私が話したことは、誰にも話さないでね」と私は彼に言い続けていたので、友達に相談してしまう私は悪い人だとも感じた。


その日の夜、私は彼の電話番号を消した。


彼には、「友達に相談して電話番号を消しました。私が話したことは誰にも話さないでほしいと話したのに、私自身が友達に話してしまってすみません」とメールを打ったところ、「電話番号を消したのですね。了解しました。友達は大切にしてください。少数精鋭がおすすめです。陰ながら応援していますよ」と返ってきた。


なぜ、彼は私にこのような対応をするのだろうか……


答えの返ってこない疑問が、私の中で浮かんでは消えていく。

きっと言葉は散りやすく、きっと言った本人が憶えていない。私も、自分が彼に向かって言ったことを大体は憶えているが、恥ずかしくて胸が痛むので、あまり考えたくない。私はずるい。


結局、私が好きだったのは何だったのだろうか。

彼自身か、それとも北側大学か、そのどちらともだろうか。

私は勉強の思い通りに行かないストレスを彼にぶつけていた。

でも少しは楽しんでいたのではないか。私は彼の言葉を、……まるで集めた宝石を数えるように眺めている気がしてならない。


私はときどき彼と北側大学を混同していたようだ。


私は北側大学に囚われていた。

大学受験も、やみくもに北側大学を目指すべきではなく、自分のやりたいことを見つけ、それがどうすればできるようになるのか、その最短ルートを見つけるべきだった。

私はムーンレイカー。水に映った月を取ろうとする、馬鹿者だ。


「北側大学、どうですか?」

「美南はどこの大学に行くのかな?」

私の父の声が聞こえてくる。小学校ぐらいの記憶だ。言った本人は忘れているだろう。

「きたがわだいがく!」

これが昔の私だ。北側大学が、父が数浪して行けなかった医学部のある大学だと知るのは、私が高三になってからだ。


小学校の頃から、親が私に公文式を習わせたり、土日には理科や社会のドリルを解かせたりしていたので、勉強は苦手な方ではなかった。

しかし、中学校に入り、公文をやめ、塾に通うようになってから、勉強や内申点を稼ぐことが私の世界を形作った。小学校のときまでは特にこれと言ったとりえもなかったけれど、これぐらいのときから初めて私は多くの人に認められた。私には勉強やいい成績しかなかった。私は名誉やプライドのようなものを守るために必死で勉強した。


「おれはね、一位を目指していたんだよ」

この言葉を彼から聞いたときは、あまりにも私と重なったので震えた。


しかし、私は地頭がよかったわけではなく、公文を習っていたときの勉強貯金があって、ワークを授業のタイミングでこまめに解き、テスト前に塾にいつも置いてある過去問をやりこんだだけだった。

高校生になって、過去問が手に入らなくなり、公文の貯金が切れてから勉強に時間がかかるようになり、私は全ての教科でいい点をそろえることが難しくなった。

今思えば、最初から過去問が手に入りそうな部活や塾に入るべきだったかもしれない。


高三のとき、破壊的な成績不振に陥ってもなお、周りの人は私を「勉強ができる」扱いをした。私は周りが思っているような結果が出せず、悔しい気持ちと情けない気持ちと何ともならない絶望感が混ざって暗闇にいた。

だから、大学生になって、私の過去を知らない人たちに囲まれるようになり、私の成績に関して何も言われなくなるようになってからは、随分と楽になったし、純粋に勉強が楽しめるようになった。


記憶の中の彼は話す。

「おれはね、前までは例えば、レストランとかのメニューを開いて、全てのページを探して、これが一番だと思うものを選ばないと気が済まなかったんだけど、今はね、とあるページを開いて、『このページの中の、これでいい』と思えるようになったんだよ。次のページはあえて開かないで」彼はメニューを開くような手振りをする。


一番じゃなくても、自分の描いた理想が全て現実にならなくても、いいということだろうか。面白いたとえを使う人だと思う。

……一方で私はまだ、どこか北側大学という理想を中途半端に捨てきれずにいる。


「やりたいことをやっても辛い。やりたくないことをやっても辛い。結局私には、ただ生きていることが辛いとしか思えない」記憶の中の私は彼に話す。

「いや、意外とそうでもないよ」彼が答える。

生きているのが辛いのか楽しいのか、私には分らず、もはやこの件に関しては、彼の言葉が私の考えの全てになってしまった。


「彼の夢の中へ入ってみないか?」私の回想が終わるのを待っていたように、黒い蝶が話しかける。

「……そうね。そうするわ。……不思議ね。なんだか彼を見ていると、大自然に触れているような気分になるの。例えば、光の散りばめられたい広い星空を見ているような。あるいは、とても大きな森林の緑の中を歩いているような」迷いながら、でも確かに導かれるように私は答える。

「なるほど、彼は君にとって偉大な父だったというのか」

「多分ね。そうだと思う」私は答える。

「そうか」

それはそう呟くと、羽の部分でちょうど二つに分かれ、私と彼の頭の中へ入っていった。



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