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私は自分の部屋でゆるい部屋着を着て、柳美里の『魂』を読んでいた。
「過去を共有すると、未来にも手を伸ばしたくなる。」この文章は今の私かもしれない、と思う。
受験勉強のやる気を出す方法、としてネットには実際に志望大学に通っている人や卒業した人に大学の話を聞く、というものがあった。
私は、彼から彼の大学時代の話を聞くことで勉強のやる気を出そうと思った。
当時の私は、一瞬でも勉強中に集中力が途切れるのが厭で、勉強に集中する方法を模索しており、かえって勉強に集中することに固執しすぎたことで精神的に不安定になったかもしれない。後に、彼からは「これ以上ネットで勉強方法を調べないでください」と言われた。
彼の大学時代の話を聞いて勉強のやる気が出たかどうかはよく分からないが、彼の過去については少し詳しくなったような気はする。さらに話していて、彼はかっこつけないかっこよさのある人のように感じた。
休日の過ごし方をなんとなく彼の方から教えてもらったときには、「私の父と似ていますね」と心の中で思った。
それにしても、なぜこんなに私に話してくれたのだろう……。
彼に私の過去と未来が重なり、私がここで何もしていなかったら、彼とは何も起こらなかっただろうという記憶を辿る。
一斉休校が終わり、私が高三として学校に通うようになってからは、彼と廊下ですれ違ったときに挨拶するくらいで、それ以上のことを話す勇気がなかった。
高三になってから少し遅れてあった学校のテストでは、休校期間中ほぼ毎日勉強したにも関わらず、ほとんどの教科で赤点すれすれだった。
私の高三のときの担任の先生は、彼とは別に、高一から私の数学をずっと見てきた先生だった。
その先生がテスト後、私に掛けた言葉はもはや勉強しろではなく、「話を聞いてもらいなさい」だった。
時間は過ぎ、二週間だった夏休みも終わり、気が付くと季節は秋になっていた。
親は秋の定期テストが悪かったら、私の第一志望校を北側大学ではなく、県内にある国立の西側工業大学に変えると言い始めた。西側工業大学の二次試験の教科数が北側大学よりも少なく、わずかな差ではあるものの、北側大学よりは入りやすいからだ。
秋の定期テストまで二週間を切ったところで文化祭があったが、私は文化祭を手伝いたい気持ちと勉強したい気持ちに挟まれていた。進学校なら、定期テストと文化祭の時期をずらしてほしいと少し思った。
親は学校行事の手伝いはサボれ、放課中も勉強しろと私の行動になんでも口を出した。私は親の言うことに従うのは厭、でも勉強はしたい、と迷いの連続だった。私は強くなれず、どちらでもないような生活を送っていた。
「文化祭はあまり好きじゃないです」
高二のときに聞いた彼の雑談が、なぜか私には救いのように感じられた。
そうこうしているうちに文化祭は過ぎ、テストも終わった。
今回のテストも前回と同様に、赤点すれすれのものが多かった。勉強はしたつもりだった。
親はテストの結果を見て、「じゃあ、志望校は変更だ」と言うのだった。私の志望校を勝手に変えられたのが厭だった。高一のときの美しい逃げ場だった北側大学が奪われてしまった。私は心の支えにしていたものを引っこ抜かれたような気分で、どうすればいいか分からなくなった。
——追い詰められた自分の運命に対する漠然とした恐れ——
『罪と罰』の朗読テープが流れ、私はどうしようか考える。
「また分からなくなったら質問してください」
私は彼と話したいと思った。ずっとそう思ってきたのを心の奥底にしまっていただけかもしれない。彼にそのようにメールするのはもの今までにないくらい勇気が必要だったけど、私はそうするほかないと、彼のことが頭から離れなくなった。
メールをしたら数日後に返事が返ってきて、彼と話せることになった。
私は決められた日の放課後、彼の所へと向かった。
話し始めるまでは少し緊張したが、話しかけてからは私が高二の頃と大して変わっていない彼なのだと感じ、次第に緊張がほぐれていった。
彼には、「おれは今、先生をやってきてよかった、って思ってるんだよ」と言われた。なぜ、私が喜びそうなことを言うのだろう?
「私の成績がどうしようもないくらい下がったんです。ほんとに」
「あら?」
彼に相談してから、私は志望校を北側大学から変えないと親に説得した。とりあえず、共通テストが終わるまでは変えない、と親を納得させることに成功した。
私は彼という強力な味方を手にした。
少し安心したので、勉強中の不安感も少し薄れた。
その後も私は彼と話し、その度私は彼に惹かれていった。
彼のことをこれほど好きになるとは全く想像しておらず、私はときどき、私こそが彼の運命の相手なのではないかという思いこみを起こした。
さらに、彼の前にいる私、彼の話をする私は親の言うことを聞かない私だった。私は親に反抗したかっただけかもしれない。
秋の模試は、今通っている南側大学や受かった東側大学でさえE判定だった。この二校には最終的には合格することになるが、それは毎日数Ⅲの積分練習をしたからと言っても過言ではない。しかし、当時はその結果がまだ分からず、ただできることをひたすらににやり続けた。
時間はあっという間に過ぎ、共通テストの日が迫ってきた。
私は共通テスト前、塾の演習と学校の演習の復習に追われ、基礎がなっていなかったせいで、どっちつかずになった。特に理科が仕上がっていなかった。
共通テスト直前に学校で行った模試では、破壊的な点数を取り、その日は学校から最寄り駅までいつもより遠回りをして、泣きながら徘徊した。ぬゆりの『フラジール』という曲が冬の寒い空気にりんと調和し、やけに私の頭の中で響いていた。
共通テストでは想定通り点が伸びず、自己採点後に泣いた。そして結局私は北側大学には願書を出さず、西側工業大学に前期と後期の試験の分の願書を出した。
大学受験において無駄だった、と思える私の時間を思い出しては、激しい後悔に襲われる。
「彼と話した時間が無駄だったとは思っていないだろう?」
黒い影がどこからともなくやってきた。
(おとうさま)私の中のレイアがつぶやく。
それは彼の形をしていた。
「彼の何に怒っている?」私から少し離れた場所で、黒い影が話す。
その声はどこか、彼に似ていた。
「彼は私と話さなくなった。私は高校を卒業する春休み、大学受験の結果が受け止められなくて、誰にも会えなくなった。親が大学の入学準備で私を外に連れ出すとき以外は、『この闇と光』でレイアが読んでいた本を読んで、ずっと家に閉じこもっていたの。そうこうしてるうち、新聞で彼が別の高校に異動になったことを新聞で知った。メールも、私の後期試験の結果が出て、最後に結果とお礼を言ってから、その後はメールできるような精神状態じゃなかったから使っていなくて、大学に入って進路に悩んだときにメールをしたけど、そのときから返信が来なくなった。頭のいい人は、人を避けるときにあからさまに厭そうな態度は取らないと聞いたから、そういうことかと思った。でもそのあと諦めきれなくて、その移動先の高校に何回か電話をしたら、彼とは繋がらなかったけど、彼が夜間の方で働いていることをその高校の人から聞いて。子育てに力を入れることにしたから、この勤務先を選んだのかなと思った。家族想いなのね。私は彼が持っているものが全て妬ましくなった」私は彼に似た黒い影を見つめる。
「彼とはそんなに何がしたいんだ?」
「……たとえば、彼の言葉の影響を大きく受けて今の大学を選んだから、今こんな感じですよ、って報告するとか。他には、私が今取り組んでいることをこのままやり続けていいんでしょうか、って訊くとか」
「北側大学に届かなかったように、たとえその想いが彼に届かなかったとしても?」
「構わないわ。でも思うのよ。私がもっと年を取っていて、辛いことをたくさん経験していて、もっと擦れたころに彼と出会っていたらどうなっていたんだろうって。私は少し、彼と出会うには若すぎた」
「このタイミングで出会ってなかったら、それはきっと彼も彼じゃないし、君も君じゃないだろう。ランダムな神の意志によって、君たちは引き寄せられたんだ」
「……確かにね」
「彼の心を手に入れるって何だ?」
「……私は結局認められたいだけなのよ。彼に。別に女扱いとか要らない。本当は何もいらない。ただ、彼が私の側にいればよかった。でも、無理ね」
「ふーん。君が思い描く彼の像は大きすぎる。本人を超えているよ……そんな完璧な人間はいなんじゃないのか?」
「確かにそうね。でも、私は、彼が私の期待通りじゃなくても、別にいいと思っているの」
「そうか。で、君は彼から離れられるのか?」
「分からない。彼からもらったメールも電話番号も、彼の授業プリントも全部捨てた。捨ててから全て後悔した。私は彼に甘えている。彼から離れられない」
「そうか。じゃあ、夢の中へ行かないか?」
黒い彼が私の方へと歩いていき、静かに手を差し出す。
彼の手。私が決して握れなかった、彼の手。
私は、手を伸ばせばすぐに届くだろうと思いながら、彼に触れられなかった。彼は今の職業が向いているので、彼が今後どのような選択をして辞めるかは彼の勝手だが、少なくとも私のせいで彼が先生を辞めなければならなくなるのは避けたかった。それに、彼には守るべきものがある。せっかく安定した収入があったのに、ここで途絶えさせるわけにはいかないだろう。
私は、彼を守りたいと思ってしまった。
私は、その差し出された手が彼ではないと思いながら、おそるおそる手を伸ばす。
その手を握ったとき、それには今まで感じたことのない温もりが宿る。
「来る?」
それはそう訊ねつつ、私の手を強く握る。
「連れて行って。あなたにしか見せられないものを見せて」私は手を握り返す。
(分かった)
と言っているような目で黒い影は彼の形から次第に変形し、私の腕を蔓のように上り、首に巻き付いてから私の体内へと入っていった。
一瞬、体がひやっと凍り付く。
私の意識はそこでどこかへ行った。
先程まで読んでいた本がバサッと、落ちたような音がした気がした。
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