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南側大学へと向かっている。
電車。
私が降りる駅は、南病院前。
もう一つ先の駅は、北側大学。
私の家からはもともと南病院前の方が近い。でも、南側大学に通う学生の中には、北側大学駅の方が近く、そちらを使っている人もいる。私は、家が南病院前よりでよかった、と思う。
高二のときのオープンキャンパスでは、北側大学駅をるんるん歩いていた。ここに私の未来があると思った。
しかし今では、私は北側大学駅にはできる限り入りたくない。怖くて入れない。
もはや今現在北側大学に通っている学生にも会いたくない。会うのが怖い。だから、わざわざ北側大学生が多いところに行きたくない。
あんなに輝かしく私の目に映っていた北側大学駅は、もはや私にとって恐怖の場所でしかなくなっていた。
電車を降り、駅から出て、歩道を歩く。
子供。
私が今歩いている歩道の少し前を三十代くらいの雰囲気の男性が私に背中を向け、子供をこちらに向けて抱っこしながら、通り過ぎていく。
私は登下校中に、やけに子供の姿が目につく。
「子供が好きで意気投合したんですよ」
彼の声が聞こえる。
彼の大学時代のサークルは子供と遊ぶサークルだと聞いた。そのサークルで彼はサークル長を務めていたらしい。彼の配偶者は、そこで出会った人だろうか。
道端で見かけた男性の姿を見ながら、彼の姿を想像する。
彼も、今このように、彼の子供を育てているのではないか、と。
彼は私に一人目の子供が産まれたことを教えなかった。
公私混同しないということだろうか。別に、彼が担任のクラスでそのことを伝えたのなら、私に伝えてもいいような気はする。話す機会ならあったはずだ。
私の本好きが転じ、図書委員の仕事で本の貸し借りの業務を行っていたときに、たまたま彼の受け持っているクラスの生徒が本を返しに来て、その人に「北添先生元気?」となんとなく訊いたら、「子供が産まれましたよ」と返ってきたまでだ。本当に衝撃的だったけれど、一方で少し前に彼と話しているときに、もう少しで子供が産まれるのでは、と直感的に思った自分もいた。
子供を産み、育てることだけが人生の幸せじゃないと知りながら、なぜか彼が今、幸せの真っただ中にいるのではないか、と思い込む自分が、そこに立っていた。
子育てが大変で、本当に悩んでいて、みたいな声を聞くことすら、私には自慢のように聞こえた。
ふと、前を見上げると、先程抱っこされていた子供が急に私の方を見つめ、にたぁ、と笑った。
子供の瞳から黒い影がみょーんとの伸び、それは落下しながら丸まり、次第にさっきの子供の形になって私の方へ転がってきた。
それはしばらく、「あぇ—ん、あぇ―ん」と子供のような鳴き声をあげる。
その音は次第にひどくなっていき、私は耳をふさぐ。
あまりにもうるさいので、こちら側が泣きたくなってきた。
私の視界が少しぼやけてきたころ、それはふいに泣き止み、私の方をじっと見て、黒い口元をゆがませながら話し始める。
「『うるさいのは嫌いよ。特に子供の甲高い声はね』とでも思ったか? これは『この闇と光』のダフネのセリフだ。ダフネはレイアの召使だったね」
「そうね、よく分からないけど子供は嫌いなの」
「それは、本当は欲しいからじゃないのか?」
「分からない。本当は欲しいのかどうかも。もちろん、子供を産める時期は限られているし、病気とかになって無理になる可能性もあるから。経験として、もしかしたら必要なのかもしれない……でも、そうとも言い切れない。とりあえず、自分で産むと決めたら、その人だけは独り立ちするくらいまで責任を持って面倒を見なきゃな、とは思ってる」
「そうか。君は今のところ、基本的に子供を作るのは結婚している人同士だと考えているだろうが、結婚するために人を探すことはないのか?」
「今のところは。でも、分からない……私の母は、これ以上年を重ねてからひとりでいる勇気がなくて、私の父と結婚したのも多少はあると話していて、私もそのように考える可能性はある。ただ、母のときと時代は変わっているだろうから、もしかしたらひとりでも暮らしやすい世の中になっているかもしれない……分からないわ、未来のことなんて。とりあえず、今は大学を卒業しないとだし、彼以外は要らないわ」
「なるほど。彼ばかりだな。君は。——ダフネはレイアが寝ているふりをしているときに『殺してやる』とレイアによく言っていた。『重荷でしかない』と。でも、殺すのをやめてしまう。レイアは抵抗していないが。レイアはそんなダフネの様子を聞いて、『本気で『殺したい』と思い、本気で『殺したくない』とも思っている』と考えていたね」
「そうね。人間は誰もが、あらゆることに対して光と闇のような……相反する感情を持っているのかもしれないわね」
「なるほど。それはまるで、闇と光の神、アブラクサスのようだな。人は誰もが、か。彼の瞳には闇と光が揺らいでいるとのことだが……じゃあ、彼の何に惹かれるのか?」
「それは、……なんとなくだけど……彼は、高校時代、友達はひとりいたか、いないかくらいだと話していたわ。大学でも、ほとんどひとりで過ごしていたみたいで。それらの話が本当だとしたら、相当頭がいいと思うけど。だって、友達の協力ほとんどなしで、大学を卒業したってことでしょう? 彼のそういう、孤独に耐性があって、自分を磨くことのできる感じが好きだった。私はそこまでできなかったから、羨ましかった」
「そうか。でも、さすがに、二人で話していたときに彼は『最近は、大学時代の友達とも会ってないな……』とつぶやいていたから、多少はいるんじゃないのか?」
「そうね。サークルの人とかかしらね。あと、一応『大学は色んな人がいるから面白いよ』『数理学科には変人しかいない』と私に話していたし」
「なるほど。本当にひとりが好きなら、結婚はしていないはずだし、先生なんていう人間が相手の職業にも就かないはずだぞ」
「確かにそれはそうね。彼はひとりでも確かに平気で、でもやはり……ずっとそうしているのは無理なのよ。少し……私は、彼がそのような人生に寂しさを感じなかったのには、何か生い立ちに理由があるのかもしれないと思ってるけれど。でも、このような男性が好きな女性は一定数いると思うの。別に、私だけが彼の魅力に気づいたわけではないわ」
「なるほど。ところで君は、なぜ彼が高校の先生を目指したのか、多少は話を聞いたんだろう?」
「ええ。彼はもともと小学校の先生になりたかったらしくて、でも、子供と遊ぶサークルで、いかに子供が大変かを痛感したらしいの。そこで、まだ言葉が通じる高校生にしようかな、と思ったそう」
「そうか。とある君のクラスメイトは、彼に対して、『あの人は研究者になってもおかしくないくらい頭がいいよ。なぜ高校の先生をやっているのか分からない』と言っていたな。彼自身も『研究者気質だから』と話していた」
「そうね。彼は大学四年生のときにバイトを始めて、そのお金で大学院の頭金を払い、奨学金を使って大学院に進んだらしいの。あと、これは私の予想だけど、大学生になっても真面目に勉強してた、ってことだよね。大学三年生までバイトもしてなかったってことは。勉強熱心で素敵ね」
「そうか、やはり彼は君にとって憧れの存在だったんだな」
「そうね、私は彼の持っている要素が全て私の欲しいものだった。私は、大学生になるまで、『北側大生』を神のようにすごい存在として、崇めていたの。彼も含めてね。彼が北側大出身であることを褒めたたえすぎていたわ。でも、大学生になってから、北側大生なんて所詮、大学生の一種だったのだと思うようになった、彼も一応、『北側大学には、こいつらほんとに北側大学なのか? っていうやつらもいるよ』と話していたしね」
「そうか。でも、君はまだ、自分が北側大生でないことにコンプレックスを抱えているように見えるぞ」
「そうね。彼に『自己肯定感が低いんです』と話したら、『それは自分で何とかして』と言われたわ。とりあえず、私は、私にできそうなことをやろうと思ってる」
「そうか」
それはそう呟くと、子供の形からどろどろと変形し、地面に小さな池を作って、地面の奥へと消えていった。
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